2025年12月15日月曜日

2025年12月15日の聖句

彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。(イザヤ53:5)
私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)

神は私たちに御子を与えてくださいました。あまりにも大きなその事実を祝うクリスマスを迎えようとしています。主イエス・キリストは私たちの間に一人の女からお生まれになり、私たち人間の一人になってくださいました。神の子でいらっしゃるお方が人になられた。そして、それだけではなく、主イエスは十字架の死に至るまでへりくだり、従順を貫かれました。神さまはそこまで徹底して御子を私たちのために与えてくださいました。
「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。」
これは、私たちキリスト者の確信です。神は御子を私たちに与えてくださったお方。ご自分の独り子を私たちと同じ人間になさり、十字架にまでかけられることをお許しになった。そこまで徹底して御子を与えてくださったお方は、御子と一緒にその他のすべてのものを私たちに与えてくださらないはずはない!
ですから、私たちのあらゆる不満やつぶやき、「足りない」と言い続ける貪欲には居場所がないということなのだと思います。どうしたって私の中にはそういう心が根を下ろしてどっかりと居座ってしまっています。そのことに気付く度に、主イエスを見上げます。「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。」十字架にかけられたこのお方を仰ぎ、このお方を愛し、生きていきたい。私たちの願いはその一事に尽きます。

2025年12月14日日曜日

2025年12月14日の聖句

今週の聖句:
主の道を備えよ。見よ、主は力を帯びて来られる。(イザヤ書40:3,10)

今日の聖句:
主よ、あなたに呼びかけます。わが大岩よ、沈黙しないでください。(詩編28:1)
(百人隊長によるイエスへの願い)ただ一言おっしゃってください。そうすれば私の僕は癒やされます。(ルカ7:7)

異邦人であるこの百人隊長の僕が病気で死にかけていました。この人はユダヤ人からとても信頼されていたようです。ユダヤ人の長老たちがこの人に代わって主イエスのところへ来て、百人隊長の僕を癒やしてくださるようにお願いしました。すると主は一緒に来てくださった。主が来てくださっていることを知った百人隊長は友人たちを送って言わせます。「主よ、ご足労には及びません。私はあなたをわが家にお迎えできるような物ではありません。ただ一言おっしゃってください。そうすれば私の僕は癒やされます。」主イエスはこの人の信仰をとてもお喜びになりました。
この百人隊長は、主イエスの御言葉の力、その権威を信じていました。主がひと言おっしゃってくだされば必ず救いの出来事が起こる。そのことを確信しています。私たちも同じキリストの御言葉に耳を傾け、このお方の恵みの言葉によって生かされています。
私たちにとって大切なことはただ一つです。神の言葉。キリストの言葉。それは「主よ、あなたに呼びかけます。わが大岩よ、沈黙しないでください」と旧約の時代を生きた信仰者が祈っているとおりです。神が御言葉を語り、私に語りかけてくだされば私は生きられる。神さまが語りかけてくださる一つひとつの言葉によって、私たちは神の恵みの中に招かれ、そこで立つことができるのです。だから、今日もひたすら、一筋の心でキリストの言葉を待ち望みましょう。

2025年12月13日土曜日

2025年12月13日の聖句

見よ、その日が来る。この都が主のために再建される日がーー主の仰せ。(エレミヤ31:38)
また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にある」。(黙示録21:2~3)

前597年にユダ国はバビロンという国に破れ、神殿や王宮の財宝、国の要人が連れ去られてしまうという事件が起きてしまいました。第一回バビロン捕囚と呼ばれています。そしてその10年後の前587年にはエルサレムの都が陥落し、神殿も破壊され、ユダ国は滅亡しました。この時にもたくさんの人がバビロンへ強制連行された。こちらは第二回バビロン捕囚と言います。
今日の旧約の御言葉は、恐らく第一回バビロン捕囚と第二回バビロン捕囚の間に語られたものです。周囲には崩壊と危機があった。ところが当時ユダ国内にいたエレミヤ以外の預言者は、捕囚はほんの数年で終わるという楽観的で、人々に受けの良い言葉ばかりを語っていました。エレミヤはそのような楽観論に与せず、しかしいたずらに不安をあおるのでもなく、神に「語れ」と命じられたことだけに徹しました。「見よ、その日が来る。この都が主のために再建される日が」と、主は仰せになっている。エレミヤは神の言葉だけに立ちます。
このエレミヤの言葉は、エレミヤ自身も思ってもみなかったほどに大きなスケールでやがて完全な成就を迎えます。「また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人と共にある』」。
神ご自身が私たちと共にいてくださる。新しいエルサレムの都が私たちのところに来る。神が私たちと共に住んでくださる。この時を目指して、私たちも生きています。エレミヤの時代も、現代も、それぞれに課題は多く、厳しい時代です。この時代の中で私たちはただ神のみを見上げ、主の民として生きていくのです。

2025年12月12日の聖句

ああ、あなたが天を引き破って降臨してくださるのであれば。(イザヤ63:19)
(天使のマリアへの言葉)「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。」(ルカ1:31~32)

天を引き破って、神ご自身が降りてきてくだされば!
天というのは神がおられる領域という意味でもありますが、それだけではなく神ご自身を婉曲的に示す表現でもあります。神がご自身を引き破って私たちのところに来てくださる。それは造られた世界のすべてが揺れ動くような出来事です。
「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。」
そうして来てくださった主イエス・キリスト。このお方は私たちのところへ来てくださった神ご自身です。神は実際にご自分を引き破って私たちのところにまで降りてきてくださいました。神ご自身でいらっしゃる方が一人の人間の子どもになられたのです。
神さまは私たちを救うために、天のかなたから手を伸ばすという方法をお選びにはなりませんでした。私たちのところにまでご自分を引き裂いて降りてきてくださった。いと高き神の子を私たちの間に与えてくださった。私たちが神のところに上ったのではなく、神が私たちのところに来てくださったのです。
私たちがちょっとはマシになって神さまに近づくのではありません。私たちがもっと信仰深くなって神さまをお迎えできるに足るようになるのではありません。神さまから相変わらず遠く、神さまを知ろうともしない私たちのところへ神がご自身を引き裂いて来てくださったのです。私たちは、ただただ後からそのことを知らされるだけなのです。

2025年12月11日木曜日

2025年12月11日の聖句

私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ。(エレミヤ31:3)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

神さまの愛は私たちにはあまりにも広く、長く、高く、深くて、想像が及びません。「私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ。」とこしえの愛、と神さまは言われます。私たちは「とこしえの愛」を知りません。私たちの愛はどんなに純粋でも限りがあるし、そもそも私たちはとこしえに生きられる存在ではない。しかし神さまの愛はとこしえです。私たちは神さまの愛にすっぽりと包み込まれている。
そのことを思うと「愛」という同じ言葉で神さまの愛と私たちの愛とを言い表してよいのだろうか、とさえ思います。あまりにも質が違う。私の持っているものはあまりに身勝手で、損得ばかりが先に立ち、「愛」という言葉をあてるのがはばかれるようなものでしかない。愛と言いながら愛でも何でもないという私の現実は、罪という言葉で言わねばならない現実であるのかもしれません。
しかしそうであるからこそ、神さまはとこしえの愛で私たちを愛して下さっているのではないでしょうか。神さまは、ご自分のとこしえの愛を最上の仕方で現してくださいました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これほどの愛は他には絶対に存在しません。神であるお方が、造られたものに過ぎない私たちのために独り子を与えてくださったのです。私たちにあるものは愛と呼ぶことのできないつまらないものでしかないけれど、それでもなお神は私を永遠の愛で愛し、独り子を与え、私をご自分のものとしてくださった。私にあるのはその事実だけ。それでよい。それだけでよいのです。

2025年12月10日水曜日

2025年12月10日の聖句

主なる神よ、あなたはまことに大いなる方。私たちの知るかぎり、あなたのような方はなく、あなたのほかに神はありません。(サムエル下7:22)
私はアルファでありオメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである。(黙示録22:13)

すべてのものには初めがあって、終わりがあります。この宇宙全体の初めは、ビッグバンでしょうか。それでは、終わりは?こちらにもいくつかの説があるようです。初めや終わりがどのようなものであったとしても、それもまた神の御手の中にあると私たちは信じています。
しかし、もっと私たちにとって身近で重要なのは、この私自身の始まりと終わりだと思います。私は私自身の力で命を始めることはできないし、終わりも自分で決めることはできません。それは神さまの御手の中にある。私たちにとっては「死」も謎に包まれた闇ですが、それだけではなく、生まれる前のことも謎です。私も、それどころか父も母もまだ生まれていなかったとき。私はどこにも存在していない。父母未生以前の闇もまた恐るべきもの。しかし、そのすべてを神が治めておられます。
「主なる神よ、あなたはまことに大いなる方。私たちの知るかぎり、あなたのような方はなく、あなたのほかに神はありません。」
へりくだって、このお方を畏れ、敬うということこそが私たちの人間らしい姿なのだと改めて思わされます。人間としての分を知り、限られた命の有り難さに感謝し、与えられた者に満足すること。そういう人間らしさを取り戻したい。そのように思わされています。

2025年12月9日火曜日

2025年12月9日の聖句

あなたが白髪になるまで、私は背負う。
私が造った。私が担おう。
私が背負って、救い出そう。(イザヤ46:4)
本当にやもめである人をやもめとして大事にしてあげなさい。(1テモテ5:3)

今日の旧約聖書の御言葉は、偶像礼拝について書かれている文脈に出てきます。「あなたがたは私を誰に似せ、誰と等しくしようとするのか。私を誰と比較し、似せようとするのか。」そして、金や銀で細工師に神を造らせて、それにひれ伏し、拝んでいる。そして「彼らはそれを肩に乗せ、背負っていき、しかるべき場所に据える。」つまり、人間が造り、背負って運び、それにひれ伏すのが偶像、ということになると思います。
ところがまことの神さまはそうではない。「あなたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。」神が私たちを造ってくださった。神が私たちを背負い、担ってくださる。人間が造ったものは神ではない。人間が背負うことができるようなものは神ではない。私たちは神さまの背に担って頂いて、生かされています。
そうであるからこそ、私たちはお互いの重荷を担い合い、共に生きるために愛をもって互いを尊重します。「本当にやもめである人をやもめとして大事にしてあげなさい。」神が私たちを背負ってくださっているのですから、私たちも互いを担い合うのです。

2025年12月8日月曜日

2025年12月8日の聖句

あなたはあなたの神に立ち帰れ。慈しみと公正を重んじ、絶えずあなたの神を待ち望め。(ホセア12:7)
(パウロの手紙)「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(1テモテ1:15~16)

パウロはたくさんの手紙を書き、新約聖書に収められています。パウロが比較的若い頃に書いたと考えられているコリントの信徒への手紙一に、このような言葉があります。「私は神の迫害を迫害したのですから、使徒たちの中ではもっとも小さなものであり・・・」(1コリント15:9)。そして、もっと後に書かれたと考えられているエフェソの信徒への手紙にはこのようにあります。「この恵みは、すべての聖なる者たちのうちで最も小さなものである私に与えられました(エフェソ3:8)」。そして、テモテへの手紙はパウロの晩年に近い時期に書かれたと考えられています。今日の箇所にはこうありました。「私は、その罪人の頭です。」
このように見ていくと、年を経る毎にパウロの罪の自覚が深まっていたことが分かります。使徒たちの中で、すべての聖なる者たち(つまり、キリスト者たち)の中で、いやそれどころか、ありとあらゆるすべての罪人たちの頭に他ならない。私は救いようのない、とんでもない罪人。パウロは年を取る中でそういう自覚を深めていきました。
とんでもない、救いようのない罪人。そんな私を救ってくださるのは、ただイエス・キリストだけです。キリストの限りない寛容が私を救ってくださった。罪人を救うために世に来てくださったキリストが、こんなとんでもない罪人の頭である私までも救ってくださった。
私たちにはただキリストがいてくださるだけです。他には何もない。そして、他の何も必要ない。このお方におすがりするだけ。それが私の命。パウロの告白が私たちに響きます。

2025年12月7日日曜日

2025年12月7日の聖句

今週の聖句:
身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ。(ルカ21:28)

今日の聖句:
主はうずくまる人を立ち上がらせる。(詩編146:8)
よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。(ヨハネ16:20)

私たちが泣き悲しみ、苦しみにさいなまれるとき。誰にでも訪れるそのようなときに私たちは思い起こすことができます。「主はうずくまる人を立ち上がらせる。」神さまは悲しむ者を慰め、力をなくしてうずくまる人を再び立ち上がらせてくださる。私たちは御言葉に従って、そのことを信じています。
ただ、主イエスがおっしゃっているのは、単に「何かしらの悲しみ」と言うことには尽きないのだと思います。「よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。」この泣き悲しみは、主イエスを信じるからこそ味わう泣き悲しみではないかと思います。主イエスさまを信じるからこそ知る悲しみがあるのではないでしょうか。
神さまは、私たちに愛を込めて命を与え、この世界をよい世界として造ってくださいました。それなのに、どうして私たちは自分自身やこの世界を毀損し、自分よりも弱い相手を見つけてはその尊厳を踏みにじってしまうのでしょう。どうして私たちは、こんなにも私たちを愛してくださっている神を蔑ろにしてしまうのでしょう。私たち自身であるこの世界の罪は、悲しみの現実です。しかし、そんな世界の有り様は、この世界にとっては喜びでしかない。
神は、悲しむ者を慰め、うずくまるものを立たせてくださいます。だから私たちは神の憐れみを求めます。神を仰ぎます。主イエス・キリストの愛におすがりするのです。

2025年12月6日土曜日

2025年12月6日の聖句

どうか主よ、救ってください。どうか主よ、栄えをもたらしてください。(詩編118:25)
聖霊は告げた。「さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。(使徒13:2~3)

「どうか主よ、救ってください。どうか主よ、栄えをもたらしてください。」この祈り、あるいは呻き、叫びの声は、私たちすべての者の声であると思います。この求めを本当は自分も抱いているということをまだ知らない、あるいは自覚したことのない人は多いと思います。しかし、例え自分でも知らなかったとしても、私たちは神によって造られ、神のかたちに造られましたから、私たちには神に満たして頂くのでなければ埋めることのできないものがあるのではないでしょうか。
ところが一体どうやって神を求めたら良いのか、どのようにしてこの渇きへの癒やしを願ったら良いのか。聖霊なる神様は、そのためにバルナバとサウロを遣わすように、最初の教会に告げておられます。彼らがまだ主を知らない地へ行って、そこで福音を宣言するように、と命じておられます。
ローマの信徒への手紙にこのように書いてあります。「信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣げ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。」そして、これに続けて旧約の御言葉を引用して言います。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」。この足は、バルナバの足でありサウロの足であり、私たちの足です。神は私たちの足をもお用いになって、救いを求める魂のところへ遣わし、キリストの福音という良い知らせを伝えるものとなさるのです。あなたのその足を、主がご入り用なのです。

2025年12月5日金曜日

2025年12月5日の聖句

主よ、慈しみを私たちに示し、救いを与えてください。(詩編85:8)
救いはユダヤ人から来る。(ヨハネ4:22)

「救いはユダヤ人から来る」と聖書にあるとおり、神のお遣わしになったメシアはユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人たちを中心に福音が告げ知らされ、ユダヤ人たちに聖霊が降って最初の教会が生まれました。神の福音は特定の人々に告げられ、特定の時と場を舞台としてこの世界に現されました。そしてそのようにして宣べ伝えられたナザレのイエスこそ、この世界のすべての人の救い主です。福音は海を越えて、異邦人である私たちのところにももたらされました。
「主よ、慈しみを私たちに示し、救いを与えてください。」私たちも同じように祈ります。神の慈しみによって私たちも生かされ、主の与えてくださる救いによって私たちも望みをいただいています。ユダヤ人に示された神の慈しみは、すべての人のための福音です。「地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される」と主がアブラムにおっしゃったとおりです。
神さまがこのようにして、特定の人々をお選びになり、歴史の具体的な出来事の中で働いてこられたという事実はとても大事です。神さまの救いの歴史は、この世界の歴史とは関係のないフワフワと宙に浮いたおとぎ話ではありません。(だから聖書の話には「歴史的背景」も大事なのです!)そうであるからこそ、「今・ここ」という具体的な時と場所に生きる私のための救いでもある。主イエスは私たちの歴史に来られた神の子。私たちと同じ一人の人間になってくださった救い主。この歴史的な事実を、今日改めて覚えたいと思います。

2025年12月4日木曜日

2025年12月4日の聖句

律法を知らない子どもたちが、またこれを聞きかつ学び、あなたがたの神である主をいつでも畏れるようになるべきです。(申命記31:13)
父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。(エフェソ6:4)

私にとっては非常に耳の痛い御言葉です。「父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。」最初からいきなり躓いてしまいます。「子どもを怒らせず・・・」。言葉もありません。
子育ては本当に難しいです。最初の子どものときには、こちらにも何の経験もないし、初めて親になったばかりで、どうすることもできない。二人目の子どものときは、上の子もいて何も考えることもできません。三人目の子どもは上に二人もいるし、気力も体力も保たないし、どうすることもできない。きっと、何人目であってもいくらでも言い訳は生まれてくるはずです。
親はちっぽけな存在です。「理想の子育て」からはほど遠いのが現実です。せめて子どもを一人の人格として受け入れ、尊重し、信頼したい。ところがそれすらも難しく、いらぬことばかり言ったりしたりしてしまいます。
自分を指針にしたり、世間のはやりを頼りにしていても、きっとダメなのでしょう。聖書はちゃんと確かな指針を示しています。「律法を知らない子どもたちが、またこれを聞きかつ学び、あなたがたの神である主をいつでも畏れるようになるべきです。」聖書の御言葉を指針とし、神である主を畏れる者として生きられるように。主を愛し、主に仕え、主と共に生きられるように。
ところがまた難しいのは、私には神さまを言い訳にして自分の思いを押しつけることさえできてしまう、ということです。信仰という名前のすてきなかぶり物をかぶれてしまうのです、子どもに対しても。だからこそ、日ごとにそんな自分の罪を悔い改め、へりくだるものでありたい。自分がまず主を畏れて。キリストがこの子と自分の間にも立っていてくださることを願いつつ、再び子どもと出会いたいです。

2025年12月3日水曜日

2025年12月3日の聖句

(モーセの言葉)「主の民すべてが預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に与えてくださればよいと望んでいる。」(民数記11:29)
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。(使徒1:8)

モーセと共にエジプトを脱出した神の民。迫り来るエジプトの軍隊から逃れるために神が海の中に道を通してくださり、食べ物がなく飢え死にすると嘆けば神が天からマナというパンを与えてくださいました。神は飲み水も与え、彼らが生きるために必要なものを一つひとつ備えてくださった。ところが、民の不平は留まりません。今度はマナだけではなく野菜や魚も食べたいと不満が噴出しました。
モーセは神に訴えます。「私一人ではこの民すべてを負うことはできません。私は重すぎます。」これに対し、神は二つの答を与えてくださいました。一つは民にすさまじい数のうずらを来たらせ、肉を食べさせた。そしてもう一つは、民の長老の中の70人にモーセの上にある霊の一部を分け与えられた。すると、長老たちはたちまち預言者のようになった。それを見たモーセの従者ヨシュアは言います。「わが主君、モーセよ。彼らを止めさせてください。」ヨシュアは嫉妬しました。このままでは長老たちはモーセなど必要ないと勘違いしてしまうかもしれない。ただモーセからだけ神の言葉を聞けば良い。ヨシュアはそう考えたのでしょう。ところがモーセは若きヨシュアを諭しました。「あなたは私のために妬みを起こしているのか。私はむしろ、主の民すべてが預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に与えてくださればよいと望んでいる。」
ヨシュアの気持ちは分かります。しかし、神さまのことを独占したいというのは恐るべき欲望。罪深い思いです。モーセはそれに囚われず、誰もが神の言葉を聞き、語ることができることを望みました。
神さまは私たちすべてのものにご自分の聖霊を与えてくださっています。私たちは誰もが祈ることができるし、御言葉を聞きます。神は私たち一人ひとりに、聖書を通して語りかけてくださっています。この神の霊を謙遜な思いでいただき、神の御前にあって隣人を立て上げる言葉を語るものでありたい、と願います。神は出エジプトの民のように私たちの貪欲から出た思いさえも見捨てることなく、私たちをご自分の憐れみの中で生かしてくださいます。そうであるからこそ、私たちは聖書を通して語る神さまの御言葉にしっかりと耳を傾け、キリストを仰いで生きていきたいのです。私たち一人ひとりに語りかけるキリストの言葉に耳を傾け、そのために互いを励まし合いましょう。

2025年12月2日火曜日

2025年12月2日の聖句

私を立ち帰らせてください。私は立ち帰りたいのです。あなたこそ私の神、主だからです。(エレミヤ31:8)
パウロは言った。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。」(使徒14:15)

改革者マルティン・ルターは言いました。「悔い改めよ」とお教えになった主イエスは、私たちの全生涯が悔い改めであることをお望みになったのだ、と。この悔い改めは、人生のいつかどこかで一回劇的な悔い改め体験をする、というような意味ではありません。日ごとに神の御前にへりくだり、毎日悔い改めて生きる、ということです。主は、私たちの全生涯が日ごとの悔い改めであることをお望みになったのです。
「私を立ち帰らせてください。私は立ち帰りたいのです。あなたこそ私の神、主だからです。」
あなたこそ私の神、主だからです。そのように言っています。あなたがほかの誰でもなく、まさにあなた様でいらっしゃるから。だから私はあなたの御許に立ち帰りたい。あなたの慈しみに、あなたの憐れみに、私の救いはある。あなただけに私の帰るべき場所がある。主よ、私をあなたに立ち帰らせてください。私たちの信仰の大先輩であるこの預言者は、そう祈っています。
私たちの願望や貪欲が生み出す偶像を捨てましょう。私たちをいつの間にか支配するたくさんの偶像に別れを告げましょう。そして、今日新たな思いで悔い改め、神の御もとに立ち返りましょう。

2025年12月1日月曜日

2025年12月1日の聖句

12月の聖句:
(神の言葉)しかし、わが名を畏れるあなたがたには義の太陽が昇る。その翼には癒やしがある。(マラキ3:20)

今日の聖句:
あなたの光とまことを遣わしてください。それらは私を導き、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう。(詩編43:3)
シメオンは言った。「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。」(ルカ2:29~32)

シメオンは生まれたばかりの主イエスと神殿で出会いました。そして言ったのです。「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」シメオンは、このお方と出会うことこそが私の人生の目的だった、と知ったのではないでしょうか。このお方に出会い、今こそ私は安らかに去ることができる。死ぬ準備ができた。主との出会いはそういう出来事です。
このシメオンの言葉は讃美歌になりました。教会の一つの伝統では、聖餐のときに歌う讃美歌として覚えられてきました。主のお体と血潮に与る私たちは、今、安らかに去ることができます。私たちは神様の御前でそう告白し、平安の中にいます。私たちを照らしてくださる神さまの平和の光の中にいる。私たちはキリストのもの。神さまの御許に生きる者。キリストの光の中、昇る義の太陽に照らされて、私たちの新しい一日が始まる。私たちはそう信じています。

2025年12月15日の聖句

彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。(イザヤ53:5) 私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。(ローマ8:32) 神は私たちに御子を与えてくださいました。あま...