あなたの慈しみに満たされ、すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように。(詩編90:14)
私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。(1テモテ1:5)
この詩編が祈るとおりの一日を、主が送らせてくださいますように。「あなたの慈しみに満たされ、すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように。」主なる神さまの慈しみに満たされた一日。なんと心躍るような言葉でしょう。私たちの「今日」に例えどのようなことがあっても、私たちはそこに神の慈しみが込められ、満ちていることを信じます。そんな今日という日も、そして明日も、「すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように」と言っている。楽しみ、喜ぶというのもまたすてきな言葉です。うっかりするとしかめっ面をして我慢していることが信仰深いあり方のような勘違いをしてしまいますが、そうではない。神が与えてくださった一日を存分に楽しんで、今日という日の喜びを味わうことこそ、神を信じる者にふさわしい、と言うのです。
今日の新約の御言葉はこのように言っています。「私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。」ここに「命令」とあります。どうやら教会でおかしな教えを説いている者がいたようです。しかしそのようなことはするなと命じなさい、とテモテに命令している。そしてパウロのこの命令は、愛を目標としている。その愛は、清い心、正しい良心、偽りのない信仰の三つから出ている、と言っています。テモテと誤った教師たち、そしてパウロとの関係を想像してみると、たいへん緊迫した場面であったに違いない。ところがそういうときにパウロは愛を目標として言葉を語りました。「愛」は、神の慈しみから生まれるのでしょう。神が与えてくださったキリスト者としての歩みを本当に楽しむ心から生まれるのでしょう。そういう素朴とも言える喜びの心から私たちの教会生活が営まれること。そのことを大切にしたいと思います。主が私たちの間に立ってくださいますように、とパウロは願っているのではないでしょうか。
私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。(1テモテ1:5)
この詩編が祈るとおりの一日を、主が送らせてくださいますように。「あなたの慈しみに満たされ、すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように。」主なる神さまの慈しみに満たされた一日。なんと心躍るような言葉でしょう。私たちの「今日」に例えどのようなことがあっても、私たちはそこに神の慈しみが込められ、満ちていることを信じます。そんな今日という日も、そして明日も、「すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように」と言っている。楽しみ、喜ぶというのもまたすてきな言葉です。うっかりするとしかめっ面をして我慢していることが信仰深いあり方のような勘違いをしてしまいますが、そうではない。神が与えてくださった一日を存分に楽しんで、今日という日の喜びを味わうことこそ、神を信じる者にふさわしい、と言うのです。
今日の新約の御言葉はこのように言っています。「私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。」ここに「命令」とあります。どうやら教会でおかしな教えを説いている者がいたようです。しかしそのようなことはするなと命じなさい、とテモテに命令している。そしてパウロのこの命令は、愛を目標としている。その愛は、清い心、正しい良心、偽りのない信仰の三つから出ている、と言っています。テモテと誤った教師たち、そしてパウロとの関係を想像してみると、たいへん緊迫した場面であったに違いない。ところがそういうときにパウロは愛を目標として言葉を語りました。「愛」は、神の慈しみから生まれるのでしょう。神が与えてくださったキリスト者としての歩みを本当に楽しむ心から生まれるのでしょう。そういう素朴とも言える喜びの心から私たちの教会生活が営まれること。そのことを大切にしたいと思います。主が私たちの間に立ってくださいますように、とパウロは願っているのではないでしょうか。