2025年11月4日火曜日

2025年11月4日の聖句

主の前を私は歩む、生ける者の地で。(詩編116:9)
あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。(ローマ6:11)

キリスト・イエスは私たちのために死んでくださいました。しかも私たちが罪人であり、弱く、不敬虔であるときに、キリストが私たちのために死んでくださいました。このお方が十字架にかけられて死なれたとき私たちも一緒に死んだのだ、と聖書は私たちに告げます。だから、今私たちが生きているのは、ただ神に対する信仰によって生きているということに他ならない。「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。」洗礼を受けて生きるというのはそういうことです。
洗礼のとき、頭に水がかけられます。もともとは水に沈めていたようです。今でもそのようにして洗礼を授ける教会もあります。頭に水をかけるというのは全身が水に沈められることの象徴です。水に沈められた私たちは、一度水の中で溺れ死んでいる。古い私は死んだ。ところが困ったことに「古い私」はとても泳ぐのが上手です。罪の私はなかなか死んでくれない。せっかく洗礼を授けられ、新しい私にしていただいたはずなのに、古い私がいつでも顔をのぞかせている。途方に暮れます。
私たちを新しくしてくださるというのは、神さまの約束に属していることです。だから私たちはそれを信じて待ち望むだけです。キリストは古く、しぶとく、そのくせ弱くて不敬虔な私のために、もう既に死んでくださった。その事実を信じ、このお方が私を神に対して生かしてくださることを受け入れて、神の御前に生きていきたい、と願います。
キリストに栄光があり、あなたの今日一日の歩みに祝福がありますように。

2025年11月4日の聖句

主の前を私は歩む、生ける者の地で。(詩編116:9) あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。(ローマ6:11) キリスト・イエスは私たちのために死んでくださいました。しかも私たちが罪人であり、弱く、不敬虔で...