見よ、その日が来る。この都が主のために再建される日がーー主の仰せ。(エレミヤ31:38)
また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にある」。(黙示録21:2~3)
前597年にユダ国はバビロンという国に破れ、神殿や王宮の財宝、国の要人が連れ去られてしまうという事件が起きてしまいました。第一回バビロン捕囚と呼ばれています。そしてその10年後の前587年にはエルサレムの都が陥落し、神殿も破壊され、ユダ国は滅亡しました。この時にもたくさんの人がバビロンへ強制連行された。こちらは第二回バビロン捕囚と言います。
今日の旧約の御言葉は、恐らく第一回バビロン捕囚と第二回バビロン捕囚の間に語られたものです。周囲には崩壊と危機があった。ところが当時ユダ国内にいたエレミヤ以外の預言者は、捕囚はほんの数年で終わるという楽観的で、人々に受けの良い言葉ばかりを語っていました。エレミヤはそのような楽観論に与せず、しかしいたずらに不安をあおるのでもなく、神に「語れ」と命じられたことだけに徹しました。「見よ、その日が来る。この都が主のために再建される日が」と、主は仰せになっている。エレミヤは神の言葉だけに立ちます。
このエレミヤの言葉は、エレミヤ自身も思ってもみなかったほどに大きなスケールでやがて完全な成就を迎えます。「また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人と共にある』」。
神ご自身が私たちと共にいてくださる。新しいエルサレムの都が私たちのところに来る。神が私たちと共に住んでくださる。この時を目指して、私たちも生きています。エレミヤの時代も、現代も、それぞれに課題は多く、厳しい時代です。この時代の中で私たちはただ神のみを見上げ、主の民として生きていくのです。
また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にある」。(黙示録21:2~3)
前597年にユダ国はバビロンという国に破れ、神殿や王宮の財宝、国の要人が連れ去られてしまうという事件が起きてしまいました。第一回バビロン捕囚と呼ばれています。そしてその10年後の前587年にはエルサレムの都が陥落し、神殿も破壊され、ユダ国は滅亡しました。この時にもたくさんの人がバビロンへ強制連行された。こちらは第二回バビロン捕囚と言います。
今日の旧約の御言葉は、恐らく第一回バビロン捕囚と第二回バビロン捕囚の間に語られたものです。周囲には崩壊と危機があった。ところが当時ユダ国内にいたエレミヤ以外の預言者は、捕囚はほんの数年で終わるという楽観的で、人々に受けの良い言葉ばかりを語っていました。エレミヤはそのような楽観論に与せず、しかしいたずらに不安をあおるのでもなく、神に「語れ」と命じられたことだけに徹しました。「見よ、その日が来る。この都が主のために再建される日が」と、主は仰せになっている。エレミヤは神の言葉だけに立ちます。
このエレミヤの言葉は、エレミヤ自身も思ってもみなかったほどに大きなスケールでやがて完全な成就を迎えます。「また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人と共にある』」。
神ご自身が私たちと共にいてくださる。新しいエルサレムの都が私たちのところに来る。神が私たちと共に住んでくださる。この時を目指して、私たちも生きています。エレミヤの時代も、現代も、それぞれに課題は多く、厳しい時代です。この時代の中で私たちはただ神のみを見上げ、主の民として生きていくのです。