ヨセフは兄弟を慰め、優しく語りかけた。(創世記50:21)
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エフェソ4:32)
聖書が私たちの人間関係の基礎におくのは、赦しです。互いに赦し合うことがなければ私たちが共に生きることはできない。それが聖書の深い知恵です。
赦し赦されることは、私たちにとってどうしてこんなにも難しいのでしょう。赦すことにも、赦されることにも、どうしようもなく自我が邪魔をします。小さくてつまらないようなプライドなのに、後生大事にしてしまって「赦し合う」ということとはほど遠い。そんな自分の姿はひどい醜態だと思います。しかし、自分の実態が「赦し」とはほど遠いのは、紛れもない事実です。
聖書は言います。「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」キリストが赦してくださった、キリストにおいて神が赦してくださった。この事実以外から始めることはできないのでしょう。キリストにただ赦されただけ。それ以外の何ものでもない。その事実が私の骨身に染みますように。
今日の旧約はヨセフという人の姿が報告されています。「ヨセフは兄弟を慰め、優しく語りかけた」。この人は子どもの頃は鼻持ちならない嫌なやつでした。そのために兄たちに殺されかけ、結局エジプトに連れて行かれて奴隷になります。更には冤罪で牢獄に閉じ込められ、ひょんな事から大臣になり・・・というようなことを経て、何十年も経って自分を殺そうとした兄たちに再会する。その時、ヨセフは兄弟の情とか自分にも悪いことがあったというお互い様の精神とか、そういうことには寄りかかりませんでした。神が私をエジプトにお送りになったのだ、という神さまの御業に目を注ぎました。そこから赦しが生まれた。私たちが自分たちの関係の次元で物事を考えているときには、何も進まないのだと思います。神は私たちにどう関わっていてくださるのか。その目には見えない事実に注目するとき、新しい道が開けるのではないでしょうか。
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エフェソ4:32)
聖書が私たちの人間関係の基礎におくのは、赦しです。互いに赦し合うことがなければ私たちが共に生きることはできない。それが聖書の深い知恵です。
赦し赦されることは、私たちにとってどうしてこんなにも難しいのでしょう。赦すことにも、赦されることにも、どうしようもなく自我が邪魔をします。小さくてつまらないようなプライドなのに、後生大事にしてしまって「赦し合う」ということとはほど遠い。そんな自分の姿はひどい醜態だと思います。しかし、自分の実態が「赦し」とはほど遠いのは、紛れもない事実です。
聖書は言います。「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」キリストが赦してくださった、キリストにおいて神が赦してくださった。この事実以外から始めることはできないのでしょう。キリストにただ赦されただけ。それ以外の何ものでもない。その事実が私の骨身に染みますように。
今日の旧約はヨセフという人の姿が報告されています。「ヨセフは兄弟を慰め、優しく語りかけた」。この人は子どもの頃は鼻持ちならない嫌なやつでした。そのために兄たちに殺されかけ、結局エジプトに連れて行かれて奴隷になります。更には冤罪で牢獄に閉じ込められ、ひょんな事から大臣になり・・・というようなことを経て、何十年も経って自分を殺そうとした兄たちに再会する。その時、ヨセフは兄弟の情とか自分にも悪いことがあったというお互い様の精神とか、そういうことには寄りかかりませんでした。神が私をエジプトにお送りになったのだ、という神さまの御業に目を注ぎました。そこから赦しが生まれた。私たちが自分たちの関係の次元で物事を考えているときには、何も進まないのだと思います。神は私たちにどう関わっていてくださるのか。その目には見えない事実に注目するとき、新しい道が開けるのではないでしょうか。