この一週間も、神さまがそれぞれに旅路を守ってくださって、今日の朝を迎えました。悩んでしまうこと、試練、悲しみもあったことでしょう。そのようなとき、神を信じる者は神を呼びます。早天祈祷会の奨励をメーリングリストで配信しています。先日、八木重吉の私の大好きな詩を送信しました。
てんにいます
おんちちうえをよびて
おんちちうえさま
おんちちうえさまととなえまつる
いずるいきによび
入りきたるいきによびたてまつる
われはみなをよぶばかりものにてあり、
もったいなし
おんちちうえ ととのうるばかりに
ちからなく わざなきものなり
たんたんとして、いちじょうのみちをみる
いろいろなものを抱えながら、息をする度に神を「おんちちうえさま」と呼びます。そうすると、抱えているものは変わらなくても、違った風景が見えてきます。それは多くのキリスト者が経験する喜びです。
クリスティアン・スクリーヴァーという人はこのような祈りの言葉を残しています。
イエスよ、肉のきずなから、私を救い出してください!
イエスよ、罪と恥から、私を救い出してください!
イエスよ、思いわずらいと苦痛から、私を救い出してください!
イエスよ、悲しみと臆病な恐れから、私を救い出してください!
イエスよ、ため息と涙から、私を救い出してください!
イエスよ、哀願し、ただ憧れるだけの苦しみから、私を救い出してください!
イエスよ、この混乱から、私を救い出してください!
ああイエスよ!ああイエスよ!
来て、私が天に至り得るように助けてください!アーメン!
主イエスは必ず助けてくださいます。私たちも信頼しましょう、この私にも、神は働いてくださると。神はこの私にも働いてくださっている。その事実を、聖書は、聖霊の働きと言い表します。聖霊はこの私にも働いてくださっている神ご自身です。罪と恥から私を救い、思いわずらいと苦痛から、私を救ってくださいます。そのような信仰の確信は持てない、私はそのような立派なキリスト者ではない。そう思われるでしょうか?それはそうなのかもしれません。信仰は自分で獲得するものではありません。聖霊が与えてくださるものです。
ご病気があって礼拝には出席できない教会員のTさんが先日お電話をくださいました。最近元気がなくて、もうイヤになってしまうこともある。新約聖書を開いてみた。フィリピの信徒への手紙第4章4から7節を読んだ。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」そう書いてあったのだけど、それで良いのだろうか、この聖書の言葉を信じたら良いのだろうか。そういうお電話でした。私は、ああこの方にも聖霊は働いておられると思いました。
私たちの苦しみの時にも神は私たちの中でもまた働いていてくださいます。私たちがそう実感できないときにも、例え時に砂を噛むような思いで聖書を開いたとしても、それでも神は働いていてくださいます。聖霊は、私たちに、主イエス・キリストを思い起こさせてくださいます。私たちの目の前には今主イエスはおられないけれど、しかし、聖霊が私にも働いてキリストをこの心に刻んでくださるから、主が今目の前におられないことは却って良かったとまで主イエスは言われる。確かに、神が独り子イエスをこの私のために下さったと信じること以上の喜びが私たちにあるでしょうか?
先週の日曜日に修養会をしました。昨日は中会でよく似た研修会をしました。どちらもこれからの教会のことを考え、語り合いました。そして、いずれも、天の父なる神が独り子イエスを下さった喜びを伝えたい、という願いに満ちていました。それが既に聖霊の働きです。聖霊によって、私たちは教会になったのです。
2017年6月11日日曜日
2017年6月7日水曜日
詩編第72編「キリストこそ我らの王」
信仰によって一つとなるべく建てられた古代イスラエル。その王はいかなる存在か。「弱い人、乏しい人を憐れみ、乏しい人の命を救い、不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。」王が求めるべきは経済的繁栄でも軍事的栄華でもない。むしろ貧しい者のための正しい裁きである。未だかつて、そのような統治をした為政者がいたのだろうか?私たちはただ一人のまことの王、キリストを知っている。この方こそ神の国をもたらす我らの王だ。
2017年6月4日日曜日
ヨハネによる福音書20:19-23「イエスの息吹に生かされて」
今朝の聖書の言葉はヨハネによる福音書のペンテコステ(聖霊降臨)の記事だと言われています。主イエスが十字架にかけられ、甦り、天に昇り、そしてペンテコステの日に神の霊(聖霊)が弟子たちに降り、教会が生まれました。22節に「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」とあります。イエスが弟子たちに息を吹きかけます。新約聖書が書かれたギリシア語でも、旧約が書かれたヘブル語でも、霊、息、風などは同じ単語で表します。「いのち」という言葉の響きを持つ字が使われています。それで、今朝の話は、ヨハネが伝えているペンテコステの記事、弟子たちにキリストの霊(あるいはキリストのいのちの息)が与えられた話だと言われているのです。カトリック教会のある司祭がこの時の出来事をこのように言い表しました。「ユダヤ人を恐れて家に閉じこもっていた弟子たちが、イエスの吹きかける霊によって変えられ、心臓の鼓動の有無とは別の新たないのちを与えられる。そうされた弟子たちが歩む道はイエスの歩んだ道である。『人がその友のためにその命を捨てること、これよりも大きな愛はない』(15:13)という言葉を自ら実践したイエスの道である。」素晴らしい言葉だと思いました。同時に、わが身をふり返ると恥ずかしくもなる言葉でした。「友のために命を捨てる」と言います。しかし、例えば誰かと言い争って自分の主張を変えることができない、そこでは自分の自我が生き続けています。もちろん生きていれば自我を殺すことなんてできません。しかし、私は洗礼を受けたときに一度キリストと一緒に死んだはずです。それにも拘わらず、自分の意地がしぶとく生き続け、いろいろな人を傷つけている。どうして、こんなにも自分にしがみついてしまうのだろうか。19節に弟子たちがユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたと書かれています。きっと、彼らが家の戸と一緒に閉めてしまったのは、自分たちの心の戸でもあったのでしょう。世間を恐れ、相手を恐れ、戸を閉めて閉め出す。そうやって戸を閉じたとき、知らぬ間に神をも締め出します。毎日新聞がかつてヘイトクライムの突撃隊長と呼ばれていた人のインタビュー記事を掲載していました。私と同い年の人でした。勤めていた運送会社の倒産や事業の縮小で職を転々とし、知り合った人たちの影響でアジアを見下すことを覚え、3.11後に原発問題で在日コリアンの陰謀論を信じ込み、ヘイトスピーチにのめり込む。デモが居場所になったが暴行事件での逮捕を切っ掛けにデモに参加しなくなり、かつての仲間からののしられ、疲弊した彼を救ったのは在日コリアンの言葉だった。「なんでも俺に言えよ」と言ってくれた。私たちの言葉で言えば、赦しを経験したのです。それで、彼は変わった。主イエスは弟子たちに言われます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」あまりにもまぶしい言葉です。自分に人の罪を赦せるのかと考えるとどうしようもなくなる。しかし、立ち止まって考える。なぜ、私たちは戸を閉ざすのか。怖いからです。相手を信じられないからです。イエスを裏切ったからです。そんな私たちのところに主は来られ、「あなたがたに平和があるように」と罪の赦しを宣言してくださる。キリストがいなければ生きられない惨めな罪人として、私たちは神の前で共に祈ることしかできません。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」と。キリストはそのために赦しの霊である聖霊を与え、私たちを心臓の鼓動の有無とは別の新しいいのちに生かしてくださっているのです。
2017年6月1日木曜日
詩編第71編「母の胎内から、白髪になるまで」
主の御もとに身を寄せ、恥に落とさないでください、助けてください、逃れさせてください、救ってくださいと懸命に祈る。この祈りはこの時ばかりの祈りではない。母の胎にあるときから寄りすがり、若いときから、そして老いて白髪になっても、祈り続ける。生涯続ける祈りだ。この祈り手に具体的に何が起きたのかは分からない。しかし、誰かに苦しめられていたのだろう。私たちも祈ろう、生涯かけて。神は必ず救ってくださるから。
2017年5月28日日曜日
テモテへの手紙二2:1-13「キリストの恵みによって強くなろう」
さがみ野教会の前身の栗原伝道所は1976年5月23日に開設記念礼拝を献げました。毎年、ペンテコステ(聖霊降臨の主日)の礼拝をさがみ野教会の設立記念礼拝として献げてきました。今年は来週です。来週、さがみ野教会は41周年を迎えます。つまり、今週までが40周年ということでしょう。今朝ここで礼拝を献げている私たちも、栗原伝道所・さがみ野教会の40年の歴史に連なっています。今朝私たちに与えられているテモテへの手紙は、使徒パウロが若い伝道者テモテに宛てた手紙、牧師としての心構えを書き送った手紙です。2節にこう書いてあります。「多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」テモテは伝道のことでいろいろと苦労していたようです。そういうとき、得てして私たちは孤独になる。パウロはテモテに言います。あなたの周りには、神のために忠実に働く同労者がいるではないか。彼らに委ねなさい、と。パウロからテモテへ、テモテから新しい同労者へ。テモテはそういう福音伝道の連環の中にいます。パウロはテモテに教会を見せようとしています。教会の仲間たちを。彼らを愛し、信頼して、共にキリストに仕えようと呼びかけます。昨日、日本中会の召天者記念礼拝がありました。平尚紀伝道師が説教しました。聖書は「私はまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という主イエスの言葉でした。ご実家のとなりにあるというブドウ畑を紹介しながら、新しい枝は古い枝につながって、幹につながっている。私たちも、既に亡くなった先輩につながることでキリストにつながっている。そうおっしゃっていました。なるほどと思います。ただ、既に亡くなった方だけではありません。すべての先達と後進につながることで、私たちは一つの大きな木として実を結びます。これまでの41年間で、栗原・さがみ野教会には総計102名の教会員が名前を連ねました。逝去者や転出者を含みます。そのすべての枝々が互いにつながることで、私たちはキリストと一つにつながる。11から13節は2000年前の教会の讃美歌の歌詞と言われます。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」これは、洗礼のことを指しているようです。洗礼を受けて、私たちはキリスト共に一度死んで、キリストと共に新しい命を生きるようになったのです。洗礼を受けたあなたは今キリスト共に生きているし、洗礼を受けていない人は、この新しい命に招かれています。あるいは他の教会のメンバーのままここに来られている方も、この教会で、ここで、共にキリストの枝として生きていきましょう!教会では、ときに、躓くことも起こります。テモテも何かに躓いていたからこそ、パウロがわざわざ手紙を書いたのかもしれません。パウロがテモテに思い起こさせた讃美歌ではこう歌っている。「私たちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。」誠実と真実は同じ言葉です。信仰とも訳せます。私たちは不誠実で不真実で不信仰でも、キリストは誠実、真実、信仰を貫いてくださる。それは確かです。改革者ルターは毎日神の前に悔い改めようと言ってあの改革運動を始めました。神の前で毎日悔い改めて、新しくしていただく。絶望するしかない私たちであっても、悔い改める者をキリストは新しくしてくださる。それが教会の歴史です。ここに私たちのしなやかな強さが生まれます。
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2025年8月30日の聖句
主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1) こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15) 「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」 しかも、もったいないこ...