2015年1月21日水曜日

詩篇第119編17から24節(ギーメル)

(私訳)
17 報いてください あなたの僕に 私は生きたい
  そして私は見つめたい(守りたい) あなたの言葉を
18 覆いを取ってください 私の両目の そして私は見たい
  驚くべき事々を あなたの律法から

19 よそ者 私は この地において
  ない 私に隠してください 私から あなたの戒めを
20 砕けた 私の魂は 切望へ
  あなたの裁きに向かって 全ての時において
21 あなたは責めた 誇る者らを 呪われた者らを
  踏み誤る者らを あなたの戒めから

22 取り除いてください 私の上から 恥を そして 侮辱を
  なぜなら あなたの定めを 私は観た(守った)
23  また 座った 王子らが 私に向かって 彼らは言った
   あなたの僕は 黙想する あなたの掟を

24  また あなたの定めは 私の楽しみ 人々 私の会議

この詩編の構成
この詩編は三部に分けられる。1718節には「報いてください」、「覆いを取ってください」という二つの命令形が出てくる。そして、どちらにもそれに続いて願望形の動詞が出てくる。第Ⅰ段落は祈りのことばである。次の第Ⅱ段落は19節と21節に同じ「あなたの戒め」があり、段落の枠を作っている。そして、最後の第Ⅲ段落は22節と24節に「あなたの定め」が登場して枠を作る。
この詩編の主題
これら三つの段落の全てに「見る」ことを内容とする語が登場している。また、第Ⅰ段落と第Ⅲ段落に共通して「あなたの僕」とある。この詩編はあなたの僕である「私」に主の言葉を見せてくださいと祈る。そこに主題が込められている。
第Ⅰ段落
あなたの僕に報いてください、私の両目の覆いを取ってください、と祈る。それは主の言葉を見つめ、主の律法の驚くべき事を見たいからだ。この「驚くべき事」は人の力を超えた力を指す。ゼカ8・6では人にとっては驚くべき事も神にとってはそうではない。そのような驚くべき神の律法の力を見たいのだ。
第Ⅱ段落
それは苦しめられているからである。誇る者、呪われた者、主の戒めを踏み誤る者が主の僕を苦しめる。私の魂は砕け、切望する。この「魂」はネフェシュで原義は「喉」で、渇きと結びつく。更に渇いて水を求める人の切望、或いは求めに特徴付けられる人間存在を表す。苦しめられ、砕かれ、めちゃくちゃにされた詩編作者は、「あなたの戒めを私から隠さないでください」と祈る。
第Ⅲ段落
これまでは見せてくださいと祈っていたが、ここに至って「私は観た」と言う。恥と侮辱の中で主の定めを観たのだ。王子の権力や傲慢に遭っても主の掟を黙想し、楽しみ、主の定めによって行く道を決める。
この地のよそ者として
19節に「私はこの地のよそ者」とある。外国人というより、主の律法に生きると必然的によそ者になる、ということだろう。よそ者はめちゃくちゃにされてしまう。イエスは「心の貧しい人々は、幸いである」と言われた。この貧しさは謙遜さではなく、めちゃくちゃに砕かれた者のことだ。天の国はその人たちのものである。主が教えられる幸いだ。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...