2015年3月22日日曜日

マタイによる福音書6:25-34「明日のための思い悩みから解放される」


主イエスのお言葉はとてもイメージ豊かです。「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」。よく見なければ見逃してしまう、注意して見なければ気づかない神のご配慮をよくご覧なさいと言われます。主イエスに喚起されたイメージは広がり、私たちも、身近にいる信仰者をよく見てみたならば、そこでもやはり同じように神のご配慮を見ることができることでしょう。神を信じる者は、自分が神の父としての慈愛によって生かされていることを信頼して生きているのです。空の鳥は神が養ってくださいます。野の花は神が美しく装ってくださいます。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、と主は言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」だから、思い悩まなくて良いのです。これは神の祝福と父としての慈愛に満ちた、約束の言葉です。私は今日の聖書の御言葉を読みながら、いろいろなことを考えました。卑近なことを考えました。家計簿をつけて良いのか、生命保険に入って良いのか、身なりを整えおしゃれをしても良いのか、などという些末なことです。しかし、そういう些末な生活上のことが案外大切なのです。信じることは、生活することだからです。毎日のメシの話、衣服の話を主イエスはなさっているのです。信仰は心の問題ではありません。私が学生の頃に信仰の指導をしてくださった牧師は、あなたがどう神を信じているのかは、あなたがどうお金を使うかに表れると言っておられました。その通りであると思います。そして、得てして、金は私たちと神様との間に割って入ってきて、神を信じて生きることを邪魔します。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と主イエスは言われました。当たり前です。しかし、この当たり前が当たり前でなくなる本末転倒がよく起こるのではないでしょうか。お金は生きていくため、命のため、食っていくためのものに過ぎません。しかし、いつの間にか貯めること自体が目的になります。そうでないと不安だからです。ある程度貯まると、神無しでも生きていける気になるので、いつの間にか神様を忘れてしまいます。これを本末転倒と言わずして何と言うのでしょう。主イエスは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈れとお教えになりました。しかし、本当は、今日の糧が今日になってから与えられるのでは遅すぎるので、明日の分もほしいですし、この先一生分がほしいのです。主イエスはそういう気持ちをよくご存知の上で私たちにチャレンジなさいます。「明日のことまで思い悩むな」と。なぜなら、神は私たちの父だからです。この方はご自分の御子をくださり、御子と共に私たちに必要なすべてのものを必ず下さるのです。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...