2015年3月8日日曜日
マタイによる福音書5:21-26「まずは兄弟と仲直りを」
一読しただけで決して忘れられない、突き刺さるような御言葉です。ある人はこの御言葉を巡る歴史は、何とかして意味を緩和しようとする歴史だったとさえ言います。私は人を殺したことはもちろんありません。しかし、人に腹を立てることはしょっちゅうあります。ばかとか愚か者と言うことは、そのままの表現ではないにしろ、要するに同じことは口にしています。それならば、私も裁かれ、最高法院に引き渡され、火の地獄に投げ込まれなければなりません。この御言葉を読むには、そういう痛みが欠かせないと思うのです。22節を「正当な理由もなく、兄弟に腹を立てる者は・・・」と読む理解があります。意味を緩和するのです。しかし、誰かに対して怒るとき、殆どの場合自分には怒る正当な理由があると思い込んでいます。自分は正しい、或いは間違っていても、少なくとも相手にも悪い点があると信じています。相手を口汚い言葉で感情のままに罵るとき、相手への尊敬は消えます。自分を相手より一段高いところにおいています。ついには、相手の人格を否定するため、傷つけるための言葉をさえも口をついて出てくることがある。更には人前で恥をかかせることさえ目論む。そうやって、相手を殺すのです。主は問われます。そうして相手を傷つけたまま、相手を否定し、恥をかかせ、相手が反感を持ったままで神を礼拝することができるのか、と。相手が自分に反感を持っているのだとしたら、それは自分に原因があるのではないか。主は、それでは礼拝が神の前に真実な礼拝にはなりえないとおっしゃいます。厳しい言葉です。聞くのが苦しくなります。心当たりがありすぎるのです。一つや二つではありません。主がそのように言われるのは、私たちの生臭い人間関係が、神にとってどうでもいいことではないからです。しかし私たちを監視しておられるのではありません。神が私たちに関心を持っておられるのは、主イエス・キリストが、私たちと同じ人間になられたからです。私たちの人間関係を知っておられるからです。「わたしたちが(兄弟を)愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:19)」和解、それはとても厳しい道です。屈辱を味わうこと、プライドが引き裂かれることもあります。しかし、主イエスがご自分を信じる者にお求めになる道です。イエスご自身が、ご自分を低くして、へりくだって歩まれた道だからです。だから、道を行くとき、自分を訴える人が一緒にいるのなら、それは幸いなことです。今ならまだ和解できる。裁判所に着く前であれば。主は言われるのです。その人は、あなたの兄弟だと。御自らが私たちの兄弟になってくださった方の言葉です。
2024年4月18日の聖句
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