2015年3月1日日曜日

マタイによる福音書5:13-16「塩は塩であれ、光を輝かせよ」

「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」これは主イエス・キリストが発見してくださった私たちの姿です。「地の塩」と主は言われます。塩は味をつけ、腐敗を防止し、人の命を保ちます。「世の光」とも言われます。暗闇の中に射す光は平安をもたらします。「あなたがたは地の塩、世の光だ」と主イエスが宣言してくださる。そう言われると、もしかしたら思うかもしれません。「私は全然そんなんじゃない」、「そう言われると、却って重くなる」。しかし、主イエスは「あなたたちは地の塩になれ、世の光になれ」とは言われません。「あなたがたは地の塩である、世の光である」と、キリストが見つけた事実を宣言されているのです。「それは理想であるかもしれない、でも現実はそうではない」、「聖書の建前はそうであるかもしれない、でも自分の生きる本音はそうではない」と思うかもしれません。しかし、人間にとって本当に大切なのは、「理想」とか「建前」と言われる部分ではないかと思います。自分自身、家庭、仕事、教会、そういうものに対する理想を抱いているでしょうか。「老人は夢を見、若者は幻を見る」と聖書にあります。或いは、「幻がなければ民は堕落する」ともあります。理想とか建前という言葉には非現実的だとか綺麗事だとか、そういう侮蔑的なニュアンスが含まれますが、本当に大事なものは、自分の「現実」に足し算をして得られるものではないのではないかと思うのです。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」これは、主イエスの理想です。しかも、この理想に向かってがんばれというのではなく、今現にここにいる私の内にイエスの理想を発見してくださっているのです。なんと驚くべき事でしょうか!私たちが地の塩である、世の光であるという言葉をもう少し具体的に言うと、3から11節に言われた、心貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心の清い者、平和を実現する者、義のために迫害される者らの幸いに生きている、ということです。ここには神の本音が込められています。そして、この幸いな者の姿は主イエスそのものです。つまり、キリストを信じる者はキリストに似た者になる、キリストと似た者として、地の塩であり世の光であるのです。「確かにそれは理想だ、しかし・・・」と私たちは考えてしまいます。確かに、主イエスに似るなんて、畏れ多い言葉です。しかし、主イエスを慕って、朝に夕に祈り、み顔を仰いでいれば、主イエス様に近づけるのではないでしょうか。そういう姿を見て、人々が天の父をあがめるようになるとイエスは言われました。神の愛を証しする者に、神がしてくださるのです。   

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...