2015年6月14日日曜日

牧師室便り〜幼児洗礼のこと〜

私たちカンバーランド長老教会の『信仰告白』はこのように告白しています。「5.18 洗礼は聖霊のバプテスマの象徴であり、信仰の共同体の一員であることを示す契約の外面的なしるしである。この聖礼典を通して、教会は、神が主導権をもってキリストにあって人々をご自分のものとし、罪を赦し、恵みを与え、聖霊の働きを通して彼らの生活を整え、秩序づけ、彼らを奉仕のために聖別することを証しする。」これによると、洗礼は神様の主導権のしるしです。私たちが罪を赦され、神様の恵みによって聖別される(神様のものとされる)のは、神様のしてくださることにほかならず、私たちの積み上げた功徳によるものではありません。洗礼は、私を救うのは私自身ではなく神様だ、と信じる告白です。この洗礼が誰に授けられるのか、という点については「5.19 親の一方または双方、あるいは後見者がイエス・キリストに対する信仰を言い表し、契約に責任を負う時、幼児に洗礼が施される。また、まだ洗礼を受けていない者で、イエス・キリストに対する信仰を自ら言い表すすべての者に洗礼は授けられる。」洗礼はイエス・キリストに対する信仰を自ら言い表すすべての者に授けられる。それは当然のことであるとも言えるかもしれません。神は人を分け隔てなさらない。しかし、それだけではなく、洗礼は幼児にも授けられます。親や後見者の信仰と責任によってです。なぜなら、私たち人間の救いは、自分自身の信仰が主導権を持つのではなく、神が主導権をもっていてくださるからです。ですから、興味深いことに幼児に授けられる洗礼の方が先に書かれているのです。幼児への洗礼は、神が救いの主導権をもっておられる、という洗礼の本質を現しているからです。しかし、同時に洗礼は魔法ではありません。信仰をもって、教会で生きるのでなければ意味を持ちません。「5.22 自分自身と自分の子どもたちのために洗礼を願い求め、その恩恵を受けることは、すべての信仰者の特権であり、義務である。しかしながら、洗礼は、救いに不可欠な条件ではないし、キリストにあって生き、教会にあって生活するのでなければ、有効でもない。」ですから、信仰を告白して洗礼を受けた者、また親が洗礼を願って幼児洗礼を授けられた子どもに対し、教会は共に神の前に生きる責任を引き受けます。「5.10 信仰によってキリストに結び合わされているすべてのものは、また、愛において互いに結び合わされているのである。この交わりにおいて、キリスト者は互いにキリストの恵みを分かち合い、互いの重荷を負い合い、他のすべての人々に手を差し伸べる者とされるのである。」一人の人が神を信じ、洗礼によって始まる人生を生きるというのは神がしてくださる奇跡です。教会を通じて神が行ってくださる<奇跡>に他ならないのです。

2024年12月21日の聖句

私の魂は生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。(詩編84:3) (マリアへのエリサベトの言葉)私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び踊りました。(ルカ1:43~44) エリサベトは既に老齢でし...