今日から3週間、旧約聖書のヨセフの物語を読みます。父ヤコブの11男で年寄り子であったヨセフは大層かわいがられました。特別な服もあつらえてもらいました。兄たちは彼を妬みます。ある夜ヨセフは夢を見ました。兄たちが畑で麦を束ねると、その麦束がヨセフの麦束の前に来てひれ伏したというのです。それを聞いて兄たちは怒りました。ますます妬みました。それで、ヨセフを殺そうとするまでに怒りが膨らんでしまいました。何もたかが夢でそこまで起こらなくても、とも思います。しかし他方からすると、たかが夢とバカにできません。聖書はあからさまにそう書いてはいませんが、この物語全体を読むと、明らかにヨセフの夢は神がお見せになったものです。ヨセフは神が何をお望みなのか知っていたのです、夢を通して。しかし、ヨセフを取り囲んでいる現実はそれとはぜんぜん違います。ヨセフは結局兄たちに殺されずには済みましたが、外国の商人に買われることになり、最終的にはエジプトにまで連れて行かれてしまいます。神が下さった夢と、目の前の現実とがぜんぜん違うのです。そして、それは私たちが日々経験していることなのです。かつてキング牧師は米国の黒人への差別が激しい中、「私には夢がある」と言いました。「かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」しかし、今日でもなお米国は人種の問題を解決していません。むしろ複雑になっているかもしれない。夢と現実とがぜんぜん違うのです。そんなとき、上手く現実に折り合いをつけて、自分の中で整理することもできます。しかし、もう一つの道もあります。神に、「なぜですか」と問うのです。「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うばかりです(詩編6:7)」と言うまで、嘆くのです。神が下さった夢からかけ離れた現実を前にしても、もしかしたら、生まれてから今日までの世間のありとあらゆる眼や声が、良い子にすることを私たちに強いてきたかもしれません。しかし、他ならぬ神には嘆いていいし、嘆くべきです。「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。『お前の神はどこにいる』と。(詩編42:4)」神が復活させられるのは、生きている者ではなく、死んでいる者です。ヨセフは遠くエジプトにまで売られました。夢に対して、完全に死んだ者になりました。しかし、神にとっては、終わっていなかったのです。キング牧師の夢もまたそうです。神がお選びになって用いられるのは、この世の無に等しい者や身分の卑しい、見下げられている者です。現実がどんなに乖離していても、神の御心の夢を実現させるのは、神ご自身です。私たちには混乱としか見えない現実をも用いて。
2024年12月21日の聖句
私の魂は生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。(詩編84:3) (マリアへのエリサベトの言葉)私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び踊りました。(ルカ1:43~44) エリサベトは既に老齢でし...
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神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...