2015年10月4日日曜日

創世記第37章1から11節「人間の混乱か、神の摂理か」

今日から3週間、旧約聖書のヨセフの物語を読みます。父ヤコブの11男で年寄り子であったヨセフは大層かわいがられました。特別な服もあつらえてもらいました。兄たちは彼を妬みます。ある夜ヨセフは夢を見ました。兄たちが畑で麦を束ねると、その麦束がヨセフの麦束の前に来てひれ伏したというのです。それを聞いて兄たちは怒りました。ますます妬みました。それで、ヨセフを殺そうとするまでに怒りが膨らんでしまいました。何もたかが夢でそこまで起こらなくても、とも思います。しかし他方からすると、たかが夢とバカにできません。聖書はあからさまにそう書いてはいませんが、この物語全体を読むと、明らかにヨセフの夢は神がお見せになったものです。ヨセフは神が何をお望みなのか知っていたのです、夢を通して。しかし、ヨセフを取り囲んでいる現実はそれとはぜんぜん違います。ヨセフは結局兄たちに殺されずには済みましたが、外国の商人に買われることになり、最終的にはエジプトにまで連れて行かれてしまいます。神が下さった夢と、目の前の現実とがぜんぜん違うのです。そして、それは私たちが日々経験していることなのです。かつてキング牧師は米国の黒人への差別が激しい中、「私には夢がある」と言いました。「かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」しかし、今日でもなお米国は人種の問題を解決していません。むしろ複雑になっているかもしれない。夢と現実とがぜんぜん違うのです。そんなとき、上手く現実に折り合いをつけて、自分の中で整理することもできます。しかし、もう一つの道もあります。神に、「なぜですか」と問うのです。「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うばかりです(詩編6:7)」と言うまで、嘆くのです。神が下さった夢からかけ離れた現実を前にしても、もしかしたら、生まれてから今日までの世間のありとあらゆる眼や声が、良い子にすることを私たちに強いてきたかもしれません。しかし、他ならぬ神には嘆いていいし、嘆くべきです。「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。『お前の神はどこにいる』と。(詩編42:4)」神が復活させられるのは、生きている者ではなく、死んでいる者です。ヨセフは遠くエジプトにまで売られました。夢に対して、完全に死んだ者になりました。しかし、神にとっては、終わっていなかったのです。キング牧師の夢もまたそうです。神がお選びになって用いられるのは、この世の無に等しい者や身分の卑しい、見下げられている者です。現実がどんなに乖離していても、神の御心の夢を実現させるのは、神ご自身です。私たちには混乱としか見えない現実をも用いて。

2024年4月19日の聖句

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