週報に挟まれた召天者名簿を見つめながら今日の説教の準備をしました。今日は召天者記念礼拝です。私は直接存じ上げない方もたくさんいらっしゃいます。しかし、直接お目にかかれなくとも、お話を伺ってきた方は何人もおられます。今日は、ぜひ、愛する者、既に地上の生涯を終えられた方について、皆さんに正しく知って頂きたいのです。「正しく知る」とは、福音の光の中で知るということです。私たちが信じる福音は、十字架にかけられたイエス・キリストが死者の中から復活された、という福音です。私たちも同じように復活する、という福音です。ヨハネは福音書の中で甦らされたキリストが弟子たちのところへ来られたときのことを記しています。ティベリアス湖で漁をしていたペトロたちのところへ、イエスが来られた。その夜、彼らは魚一匹とることができませんでした。岸に来られたイエスは彼らに声をかけ、網を降ろさせます。すると網一杯の魚が捕れました。その時、岸辺で声をかけてきたのは主イエスだとある人が気づき、その声を聞いたペトロは服を着て舟から湖に飛び込み、泳いで岸へ行きました。そこには炭火がおこしてあり、主イエスは捕れた魚を食べさせてくださった。食事の後、イエスはペトロに尋ねます。「わたしを愛するか。」「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」こうして、同じやりとりを3回繰り返しました。これはペトロの主イエスとの再会を伝える物語です。イエスの愛に満ちています。初めてペトロがイエスと出会ったのは、同じ湖の岸辺でした。あの朝も不漁の一夜を明けたところでした。しかし、主がおっしゃったとおりに網を降ろしたら、魚がかかった。三度「私を愛するか」主に尋ねられたとき、ペトロは悲しみました。主の十字架の前に、彼は三度イエスを知らないと言ったのです。それをなぞるかのようにして、主はペトロと再会されたのです。人間の愛は無力です。ペトロがイエスを裏切って「知らない」と言ったのは、愛の挫折でしょう。しかし、例えあの時彼が愛を貫いていたとしても、イエスが死んでしまってなお愛を貫くことができるのでしょうか。死を前に何ができるのか。しかし、主イエスは復活してペトロのところへ来てくださった。今度はペトロが愛を貫けるように、もう一度チャンスを与えるのではありません。却って、イエスの愛でペトロを覆ってしまうためです。イエスが復活されたから、愛が永遠の価値を持ちうるのです。この福音の光の中に、あなたも、あなたの愛する人もいるのです。スイスの牧師ボーレン先生が『深く閉ざされた穴蔵の底で』という本を著しました。妻がうつの果てに自殺し、ご自身も心を病みました。しかし、生きるときも死ぬときも、私はキリストのものと知り、慰めを受けたのです。
2025年4月3日の聖句
わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。(エレミヤ2:13) (イエスの言葉)私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...
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これほど深い絶望の言葉があるのか。神に見捨てられた。しかも「わたしの神」と呼ぶ方に。昨日までは親しい思いを抱いていたのか。今なお愛を込めて呼ぼうとしているのか。神は応えてくださらない。「主に頼んで救ってもらうがよい」などと誰に言われずとも自分が一番願っている。しかし、助けは来な...