2015年10月11日日曜日

創世記第39章1から23節「神は共におられる」

最近、詩編に興味があります。人間の真実を言い当てていると思うのです。詩篇第23編は恐らく最も愛されている詩編の一つでしょう。この詩編に「主は私を青草の原に休ませ」とあります。この「青草の原」は牧歌的な草原ではなく、荒れ地にわずかに生えている小さな草地というほどの意味です。或いは、死の影の谷とか災い、私を苦しめる者という言葉もありますが、この詩編作者は苦しみの中にいます。決してのどかな詩ではありません。激しい祈りの言葉です。そして、災いや苦しみの中で、「あなたがわたし共にいてくださる」と告白します。主なる神への信頼の中にだけ望みを見ていたのです。これはヨセフが生きた信仰でもあります。聖書は232123節と繰り返してそのことを言い表します。主がヨセフと共におられた、と。話はヨセフがエジプトに連れてこられたところから始まります。兄たちに殺されそうになり、結局最終的にはエジプトに売られていくことになりました。家族に憎まれ、殺されそうになり、物みたいに拾われて、売られたのです。そういう出来事の中で、聖書は「主がヨセフと共におられた」と言います。或いは、21節で、今度はヨセフは監獄の中にいます。仕えていた主人の奥さんに言い寄られて、拒んだら濡れ衣を着せられて捕まったのです。ヨセフはどこに行っても人間関係に苦しむ。しかし、そういう時に神はもうヨセフとは共におられないのかというと、そうではない。「主がヨセフと共におられ」たと聖書は重ねて言います。これはとても大切なことです。主が共にいてくださるというのは、人生に成功する、ということではありません。確かに「ヨセフがすることを主がうまく計らわれた」のですが、うまくいくことが主が共におられるただひとつの徴ではないのです。考えてみれば、ヨセフがエジプトでどんなに成功したところで、家族に捨てられたという事実は変わりません。実際、後にヨセフが結婚して子どもが生まれたときに、彼は子どもの一人をマナセ(忘れさせる)と名付け、「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」と言い、次男にはエフライム(増やす)と名付けて「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった」と言います。成功すればするほど、ヨセフの痛みは強くなったのではないでしょうか。神は、そうやって苦しみ、悩む者と共におられるのです。主が共におられるのは、わずかな草しかない荒れ地です。死の影の谷です。遠いエジプトで、独りぼっちで、しかしヨセフは、自分の人生に神が働いておられることを信じ続けました。目には見えないけれど、神が私と共にいて、働いてくださっている、と。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...