最近、詩編に興味があります。人間の真実を言い当てていると思うのです。詩篇第23編は恐らく最も愛されている詩編の一つでしょう。この詩編に「主は私を青草の原に休ませ」とあります。この「青草の原」は牧歌的な草原ではなく、荒れ地にわずかに生えている小さな草地というほどの意味です。或いは、死の影の谷とか災い、私を苦しめる者という言葉もありますが、この詩編作者は苦しみの中にいます。決してのどかな詩ではありません。激しい祈りの言葉です。そして、災いや苦しみの中で、「あなたがわたし共にいてくださる」と告白します。主なる神への信頼の中にだけ望みを見ていたのです。これはヨセフが生きた信仰でもあります。聖書は2,3,21,23節と繰り返してそのことを言い表します。主がヨセフと共におられた、と。話はヨセフがエジプトに連れてこられたところから始まります。兄たちに殺されそうになり、結局最終的にはエジプトに売られていくことになりました。家族に憎まれ、殺されそうになり、物みたいに拾われて、売られたのです。そういう出来事の中で、聖書は「主がヨセフと共におられた」と言います。或いは、21節で、今度はヨセフは監獄の中にいます。仕えていた主人の奥さんに言い寄られて、拒んだら濡れ衣を着せられて捕まったのです。ヨセフはどこに行っても人間関係に苦しむ。しかし、そういう時に神はもうヨセフとは共におられないのかというと、そうではない。「主がヨセフと共におられ」たと聖書は重ねて言います。これはとても大切なことです。主が共にいてくださるというのは、人生に成功する、ということではありません。確かに「ヨセフがすることを主がうまく計らわれた」のですが、うまくいくことが主が共におられるただひとつの徴ではないのです。考えてみれば、ヨセフがエジプトでどんなに成功したところで、家族に捨てられたという事実は変わりません。実際、後にヨセフが結婚して子どもが生まれたときに、彼は子どもの一人をマナセ(忘れさせる)と名付け、「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」と言い、次男にはエフライム(増やす)と名付けて「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった」と言います。成功すればするほど、ヨセフの痛みは強くなったのではないでしょうか。神は、そうやって苦しみ、悩む者と共におられるのです。主が共におられるのは、わずかな草しかない荒れ地です。死の影の谷です。遠いエジプトで、独りぼっちで、しかしヨセフは、自分の人生に神が働いておられることを信じ続けました。目には見えないけれど、神が私と共にいて、働いてくださっている、と。
2025年4月3日の聖句
わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。(エレミヤ2:13) (イエスの言葉)私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...
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これほど深い絶望の言葉があるのか。神に見捨てられた。しかも「わたしの神」と呼ぶ方に。昨日までは親しい思いを抱いていたのか。今なお愛を込めて呼ぼうとしているのか。神は応えてくださらない。「主に頼んで救ってもらうがよい」などと誰に言われずとも自分が一番願っている。しかし、助けは来な...