キリスト教会は三つの祭りを祝います。主イエスの誕生を神に感謝するクリスマス。そのイエスが十字架にかけられ、三日の後に復活させられたことを祝うイースター。そして、神の霊が弟子たちに降り、教会が生まれたことを記念するペンテコステ。これら三つの祝いは、それを祝う度に、私たちがどのような信仰に生きているのかを確認する機会になります▼エステル記はユダヤの「プリム」という祭りの由来を伝えます。かつてペルシアにいたユダヤ人を悪臣ハマンが殲滅しようと策略しました。ユダヤ人モルデカイを嫌い、民族全体を皆殺しにしようとしたのです。ハマンは手始めにモルデカイを高い杭に吊そうと企てます。しかし、モルデカイの養女でペルシア国王の妃であったエステルの捨て身の賭により、ハマンの悪事は暴かれ、モルデカイを吊そうと準備した杭にハマン自身が吊されました。更にユダヤ人は難を逃れ、自分たちを迫害した者たちに復讐する権利を王から認められます。その出来事を記念してユダヤ人はプリムの祭を祝い、今も毎年春先に行います。その度に自分たちが一体何者であるのかを確認するのです。自分たちは弱くて、迫害され、権力に圧迫され、信仰を脅かされているけれど、神が必ずいつの日にかその立場を逆転してくださって、私たちを貶める者らをやがて我らが支配する日が来る、その日を信じよう、と▼今日の説教題を「自分で復讐せずに」としました。今日の準備では随分と悩みました。エステル記はユダヤ人の復讐の書物です。これをどう受けとめたら良いのでしょう。歴史を学ぶと、世界中殆どどこの歴史であっても、それは殆ど戦争の歴史です。ある国が支配されて、その国をまた別の国が支配して、その度にたくさんの人が死んでいる。やられた者がやり返すこともあります。第二次世界大戦後のイスラエルの歴史を考えてみても、「復讐」をどう考えたら良いのか、簡単ではありません。しかし、私は思いました。自分はあまりにも事柄を外から眺めていたのではないか、と。聖書を開いてみると、例えば詩編にも復讐を求める言葉はたくさん出てきます。そういうものを私はあまり積極的に読んではきませんでした。しかし、復讐を求める心は私にもあります。本当は、それを神に訴えるべきだったのではないか。神に訴えることと本当にやり返すこととは違います。エステル記を読み、この歴史を追体験することが、本当は人間を復讐の歴史から解放するのではないか。抑圧された経験は誰にでもあります。親子ででも、社会ででも。そこで生まれる復讐心から解放されるには、まずちゃんと神に訴えることです。神は正義と公正を愛されると信じることです。そして復讐心から解放されるとしたら、それは倫理的な目標ではなく、神が下さる賜物以外のものではありえません。
2025年4月3日の聖句
わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。(エレミヤ2:13) (イエスの言葉)私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...
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これほど深い絶望の言葉があるのか。神に見捨てられた。しかも「わたしの神」と呼ぶ方に。昨日までは親しい思いを抱いていたのか。今なお愛を込めて呼ぼうとしているのか。神は応えてくださらない。「主に頼んで救ってもらうがよい」などと誰に言われずとも自分が一番願っている。しかし、助けは来な...