2016年3月6日日曜日

ローマの信徒への手紙第5章1から11節「我らを欺かない希望」

東日本大震災から5年が経とうとしています。私は4月に荒浜に立ち、言葉を失いました。あの時、震災と原発事故の意味が繰り返し問われました。しかし、私は何といったら良いのか分かりませんでした。8月のことです。私に説教の指導をしてくださっている加藤常昭先生が、それは人としてはもしかしたら誠実なのかもしれないが、牧師としては不誠実だと指摘されました。今こそ語るべき福音の言葉があるはずだ、と。迂闊でした。あの日から今日に至るまで、被災地で福音を宣教し続けたキリスト者達がいます。彼らは福音の言葉を語り続けました。もちろん、牧師だけではありません。多くのキリスト者が隣人に耳を傾け、また、語り続けてきました。神を信じて。試練を受けている今こそ、恵みの時なのだと信じて▼竹森満佐一牧師は今日の聖書の言葉は、これを書いたパウロが自分の信仰をぶっつけるようにして語っている、と言いました。その通りです。「神との間に平和を得ている。」それは単なる知識では意味がなくて、苦しんでいる時にどのような意味を持ちうるのか、ということが一番大切です。あの震災の時、多くの人が今私たちの社会は危機にさらされていると考えたと思います。多くの人が未曾有の災害だと言いました。しかし、僅か1年前にハイチでも大震災が起こり、その時は31万人の人が犠牲になりました。スマトラ沖での震災も記憶に新しいことです。あの時のわたしたちの感覚に表れた言葉にならない思いは、もしかしたら、今でも解決していないのではないかと思います。あの時の絆ブームでは問題の根はいやされなかったのです。6節に「わたしたちがまだ弱かったころ」とあります。この「弱い」には「病気」という意味もあるそうです。わたしたちは病気になってしまっている。人の痛みへの鈍感さやおそろしいほどの忘れっぽさ。ただ弱いからと言うだけでは済まされない。それは、はっきり言えば罪です。しかし、その罪のためにキリストは死んでくださいました。私は神の敵なのに。キリストが死んでくださったのは「罪人であったとき」です。見込みもなく、良いところもない、反省もしない私のために、キリストは死んでくださいました▼だから、神との間にわたしたちは平和を得ています。先日荒瀬牧彦先生に教えていただいたのですが、最近ハイチにカンバーランド長老教会が生まれたのだそうです。今このニュースを聞くのは、私たち日本の教会への神の憐れみであると思います。彼の地には私たちと同じ神との平和を喜んでいる信仰の仲間がいるのです。神との平和に生きる者は苦難をも誇りとします。この「誇る」は口語訳聖書では「喜ぶ」と訳されていました。苦難を喜んでいる。やせ我慢でも強がりでもありません。苦しんでいるとき、私たちは自分を喜んだり誇ったりすることはできない。神を望むしかなくなってしまいます。他にはないから。だから苦難を喜ぶと言える。そして、神がこんなに罪深い私のためにキリストをくださったから、苦しんでいても神の恵みを信じて、耐えることができます。この忍耐が生む練達とは、悲しみや喜びに無感動になるのではなく、却って本当に悲しみ、喜べるようになることです。その人は傷つきます。しかし、その涙を神にだけ向けます。だから、希望を知っている。この希望は私たちを欺くことがないのです。深く傷つき病んでいる世界に福音を届けるために、私たちは今日神を礼拝しているのです。

2022年1月19日の聖句

貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。(箴言17:5) 憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受けるからだ。(マタイ5:7) 今回のコロナのことで痛感させられたことの一つは、苦しむ人と私との差は何もない、ということです。いつ、どこで、...