2016年3月5日土曜日

ヨハネによる福音書6:16-21 「命の言葉を聞き続けよ」

主イエスが「わたしだ」と言って、舟に近づいてくださいます。「わたしだ」で通じ合える信頼関係を、主は弟子たちと持っておられたのでしょう。今朝(2011年3月13日)は急遽、説教テキストを変更しました。この「わたしだ」という御言葉に聞き入りたいからです。地震の後、訪問と電話で安否を確認して回りました。無事な姿を見、電話の声を聞いて、どんなに嬉しかったことでしょう。何よりも、私たちは知っているのです。主イエスご自身が、近づいてきてくださっているのです▼このとき、弟子たちはガリラヤ湖にいました。距離を測ると、ちょうど湖のど真ん中です。強い風、湖は荒れ、小さな舟を襲います。しかも夜です。何と人間の力の無力なことか。しかも、そこに主イエスがおられませんでした。どうして、最も主の助けを必要とするこのときに、主イエスはいてくださらなかったのでしょうか。何でこのような嵐がわたしたちを襲うのか。主イエスはわたしたちをお見捨てになったのか。ここはガリラヤ湖です。弟子たちの中でペトロを初めとする数人はこの湖で漁師として生きてきました。しかし、今、そのような経験も何の役にも立ちません。どうして神はこのようなことをするのか。私たちはそう考えてしまうのです▼しかし、聖書は私たちの目を違うところへ向かわせます。イエスが湖の上を歩いてこちらへと来られるのです。イエスは凪のときに来られたのではありません。順風満帆のときに来たのではありません。小さな舟が真っ暗闇の中、大風と波に飲み込まれそうになったときに来てくださったのです。しかし、弟子たちはそれを見て恐れました。湖の上を歩いてくるなどというあり得ない出来事に恐れたのでしょうか。それもあるかもしれません。それ以上に、弟子たちは決定的なことを見失っていたのです。「わたしだ。」という主イエスの言葉は「わたしは神である」という意味でヨハネが使う言葉です。わたしはお前の神だと言ってこの沈みそうな舟に近づいてくださる方がおられる。弟子たちはそのことを見失っていたのでしょう。この方が「わたしだ。恐れることはない」と言われるのです。このようなときだからこそ、命を得させる神の言葉を聴き続けましょう。望みを拓く命の御言葉を。

(これは2011年3月13日主日礼拝での説教です。)

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...