2016年5月29日日曜日

ローマの信徒への手紙8:18〜28「言葉にならぬ祈りを神は聴かれる」

北海道の浦河でべてるの家という活動をしている向谷地生良さんという方がおられます。当事者というのは精神障害を持つ当事者のことです。当事者同士がそれぞれ抱える苦労を話し合い、一緒に考え、その発生のメカニズムや対処方などをみんなで研究するのです。向谷地さんのことは「百万人の福音」2号で紹介されていて、他のモデルケースと共に「心の痛みに寄り添う」という特集が組まれていました。いくつかのケースで共通していたのは、フラットな関係の中で、共に悩んだり呻いたりすることを大切にしている姿勢でした。今朝私たちが聞くべき神の言葉として与えられたロマ書を読むと、被造物が呻いており、虚無に服していると言われます。ここで言う被造物というのは、自然も含めたこの世界全体という意味でしょう。この言葉を思いめぐらしながら、先週開かれたサミットのことを考えていました。先週、ニュースでは今世界が取り組むべきさまざまな問題が指摘されていました。広島には現職の米国大統領が初めて訪問しました。「核なき世界」は、一体どうしたら実現するのでしょう?例え米国が核を今すぐ全面的に放棄したところで、実現するわけではありません。途方に暮れます。一体、キリスト者としてどう祈ったら良いのでしょうか?この世界を無視して、自分だけの理想的な天国みたいなところに逃げ込むことはできないのです。詩篇第42編は呻きの詩編です。実はこれは私の岳父が好きな詩編で、「人は絶え間なく言う、『お前の神はどこにいる』と」という言葉が響くのだと言っています。常にこの言葉に晒され続けてきたのでしょう。世界が呻いています。わたしたちの神はこの世界のどこにおられるのでしょう?祈りを失いかねない現実に取り囲まれています。ローマ8:25-26を読むと、神の霊は、忍耐することのできない私たちのために、御自ら、言葉に表せない呻きをもって私たちを執り成してくださっています。言葉に表せない呻きとは何か?私は、これは、十字架の上でのキリストの呻きに通ずると思うのです。キリストは十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と言われました。「渇く」と言われました。同じ呻きをもって聖霊は私たちを神に執り成してくださいます。祈れない私たちのために。「執り成す」というのは、どういうことでしょう。私が誰かとトラブルでも起こして、どなたかが執り成してくださるとしたら、実際の私よりも良く言わないと執り成しになりません。確かにあいつはあなたの言うとおりにダメなやつだ、と言っては執り成しにならないのです。イザヤ書61:3に、神は私たちの「暗い衣に替えて賛美の衣をまとわせる」とありますが、まさに、聖霊は私たちのために新しい服、賛美の衣を着せてくださいます。私たちが神を呼べるように。結核で夭折したキリスト者の詩人、八木重吉がこのような詩を残しています。

てんにいます
おんちちうえをよびて
おんちちうえさま
おんちちうえさまととなえまつる
いずるいきによび
入りきたるいきによびたてまつる
われはみなをよぶばかりものにてあり、

もったいなし
おんちちうえ ととのうるばかりに
ちからなく わざなきものなり
たんたんとして、いちじょうのみちをみる

呻きと共に神を父と呼ぶところに、祈りが始まります。そして、聖霊と共に私たちも呻きます。まだ救われていないこの世界のために。「ああ、父よ、この世界を救ってください!」と。

2024年12月22日の聖句

今週の聖句: 主にあっていつも喜びなさい。主は近いのです。(フィリピ4:4,5b) 今日の聖句: あなたこそわが希望なる主。わが神よ、私は若い時からあなたに信頼しました。(詩編71:5) 私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見て...