2016年8月28日日曜日

マルコによる福音書15:34「神の愛はしぶとい愛」

ガラテヤの信徒への手紙第31節にこのような言葉があります。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」この手紙を書いた使徒パウロは十字架にかけられたイエス・キリストを見つめるというのは、かけがえのない慰めだと言います。それ抜きでは生きられないものです。十字架につけられたキリストは私たちの慰めですし、救いです。キリストが私たちのために呪いを引き受けてくださったからです。私が伝道師としてのスタートを切った成瀬教会にMさんという男性がおられました。58歳の時に多発性骨髄腫が見つかり、それから数ヶ月で亡くなりました。医者から余命わずかであることを告知されたとき、しかし、Mさんは動揺せず、息子さんたちにおっしゃった。私がここで動揺したら、若いときから教会で説教を聞き続けてきたことが無になってしまう。若いときから聞き続けてきた福音の言葉が死を迎えるときに確かな意味を持ったのです。Mさんを支えたのは十字架にかけられたキリストです。人間として考えれば、神にでも呪われているとしか考えようのないことが時に起こります。しかし、十字架につけられたキリストが全部の呪いを引き受けてくださいました。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」というキリストの十字架の上での叫び声が、私の「なぜ」も呪いも惨めさも、全部引き受けてくださっているのです。イエスは神から見捨てられて死にました。これ以上の呪いはない。イエスご自身には神から呪われ、捨てられる理由なんてありません。神の子でいらっしゃり、罪とは何の関わりもない方です。しかし、私のために、私に代わって、それを引き受けてくださいました。先日、横浜のそごう美術館でやっているレンブラントの複製画展に行きました。200点以上の複製画がありましたが、展覧会の最後のところに、「放蕩息子の帰還」という絵がありました。聖書にある主イエスのなさった譬え話を題材にした絵です。ある父親の息子が、父の生前に自分の財産の分け前を要求します。手に入れたらすぐに遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまいました。やがて破産し、豚飼いになります。豚のエサでも食べたいと思うほどの状況に堕ちました。そこで、父の家に帰って雇い人の一人にでもしてもらおうと、我に返って、家路につきます。その息子がまだ遠いところにいたときに父は駈けていき、抱き寄せた。その場面を絵にしているのです。息子の姿は正視に耐えないほどに惨めです。私はその大きな絵の前に立ち尽くして思いました。これは、私のことだ。彼は家族を捨てました。愛を拒みました。イエスの譬え話の父は神を表します。主イエスはこの息子の姿に託して、神の愛を拒む人間の惨めを描き出されました。神から棄てられるべきはこの私だと思います。その私のために、キリストが叫ばれた。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」捨てられるべき私に代わって神から棄てられたのは、この方だった。浄土真宗が強い金沢で、明治時代に子どもらがキリスト者を「耶蘇教徒の弱虫は磔拝んで涙を流す」とはやしたそうです。この歌の通りだと思います。私たちは磔にされたキリストを拝んで涙をがします。ここに私の救いがあるから。ここに、私のために神が備えてくださった慰めがあるからです。

2024年12月23日の聖句

私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。(詩編51:5) 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9) クリスマスにお生まれになった救い主は「イエス」と名付けられました。主の天使...