ガラテヤの信徒への手紙第3章1節にこのような言葉があります。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」この手紙を書いた使徒パウロは十字架にかけられたイエス・キリストを見つめるというのは、かけがえのない慰めだと言います。それ抜きでは生きられないものです。十字架につけられたキリストは私たちの慰めですし、救いです。キリストが私たちのために呪いを引き受けてくださったからです。私が伝道師としてのスタートを切った成瀬教会にMさんという男性がおられました。58歳の時に多発性骨髄腫が見つかり、それから数ヶ月で亡くなりました。医者から余命わずかであることを告知されたとき、しかし、Mさんは動揺せず、息子さんたちにおっしゃった。私がここで動揺したら、若いときから教会で説教を聞き続けてきたことが無になってしまう。若いときから聞き続けてきた福音の言葉が死を迎えるときに確かな意味を持ったのです。Mさんを支えたのは十字架にかけられたキリストです。人間として考えれば、神にでも呪われているとしか考えようのないことが時に起こります。しかし、十字架につけられたキリストが全部の呪いを引き受けてくださいました。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」というキリストの十字架の上での叫び声が、私の「なぜ」も呪いも惨めさも、全部引き受けてくださっているのです。イエスは神から見捨てられて死にました。これ以上の呪いはない。イエスご自身には神から呪われ、捨てられる理由なんてありません。神の子でいらっしゃり、罪とは何の関わりもない方です。しかし、私のために、私に代わって、それを引き受けてくださいました。先日、横浜のそごう美術館でやっているレンブラントの複製画展に行きました。200点以上の複製画がありましたが、展覧会の最後のところに、「放蕩息子の帰還」という絵がありました。聖書にある主イエスのなさった譬え話を題材にした絵です。ある父親の息子が、父の生前に自分の財産の分け前を要求します。手に入れたらすぐに遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまいました。やがて破産し、豚飼いになります。豚のエサでも食べたいと思うほどの状況に堕ちました。そこで、父の家に帰って雇い人の一人にでもしてもらおうと、我に返って、家路につきます。その息子がまだ遠いところにいたときに父は駈けていき、抱き寄せた。その場面を絵にしているのです。息子の姿は正視に耐えないほどに惨めです。私はその大きな絵の前に立ち尽くして思いました。これは、私のことだ。彼は家族を捨てました。愛を拒みました。イエスの譬え話の父は神を表します。主イエスはこの息子の姿に託して、神の愛を拒む人間の惨めを描き出されました。神から棄てられるべきはこの私だと思います。その私のために、キリストが叫ばれた。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」捨てられるべき私に代わって神から棄てられたのは、この方だった。浄土真宗が強い金沢で、明治時代に子どもらがキリスト者を「耶蘇教徒の弱虫は磔拝んで涙を流す」とはやしたそうです。この歌の通りだと思います。私たちは磔にされたキリストを拝んで涙をがします。ここに私の救いがあるから。ここに、私のために神が備えてくださった慰めがあるからです。
2025年4月3日の聖句
わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。(エレミヤ2:13) (イエスの言葉)私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...
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これほど深い絶望の言葉があるのか。神に見捨てられた。しかも「わたしの神」と呼ぶ方に。昨日までは親しい思いを抱いていたのか。今なお愛を込めて呼ぼうとしているのか。神は応えてくださらない。「主に頼んで救ってもらうがよい」などと誰に言われずとも自分が一番願っている。しかし、助けは来な...