2016年8月14日日曜日

エフェソの信徒への手紙第2章14から22節「平和」

「心を高く上げよ!」という讃美歌があります。讃美歌はページの下の方を見ると参照すると良い聖書の言葉が掲げられています。この讃美歌には哀歌3:41があげられています。「天にいます神に向かって、両手を上げ心も挙げて言おう。わたしたちは、背き逆らいました。」悔い改めの言葉です。「キリストはわたしたちの平和であります」という言葉があります。「平和」と言えるのでしょうか、私たちは今。戦後71年を迎えた私たちの国は、今平和でしょうか。この世界は、今平和なのでしょうか。テロが止むことありません。戦争が続きます。心にかかり、心かきむしられることばかりです。今朝ドラで話題の「暮しの手帖」を読んでみましたら、こんな言葉がありました。「『空襲』を『空爆』と言い始めたとき。日本はいつから『平和ぼけ』になったのかという問いに、思想家・内田樹はそう答えたという。東京大空爆とは言わない、力空を見上げたから『空爆』と呼ぶ。」本当に私たちが「平和ぼけ」担ってしまっているのだとしたら、その責任の一端はキリスト教会にあるのだと思います。哀歌は戦争に敗れて今悲惨な目に遭っているのは、自分たちが神を無視していたからだと告白します。同じことが私たちの国でも起きてはいないだろうか。そうであるならば、真に神に申し訳ないことです。「キリストはわたしたちの平和」というのは、キリストが神に申し訳ございませんとしか言いようのない私たちのための平和になってくださったということです。昔の教会は桃源郷に生きていたわけではありません。むしろ私たちよりも厳しい時代を生きていました。「敵意という隔ての壁」という言葉があります。恐らく、パウロは具体的な壁を思いながらこう書きました。神殿には当時イスラエル人だけが入れるところを区切るための壁が本当にあったのです。神を信じる者の間にも差別があり、壁がありました。やがてドイツの大統領になったフォン・ヴァイツゼッカーさんが西ベルリン市長であった時代に、当時誰一人として崩れることを想像すらできなかったあの壁の前でこのように演説をしました。「この壁はやがて必ず崩れる。なぜなら、人間が造ったものに過ぎないのだから。」目の前の壁が本当人間を分断するのは、敵意がそこにあるからです。敵意に捕らわれている私たちを、キリストは新しい人にしてくださいます。新しい人になるとは、洗礼を受けるということ。洗礼を受けると起こる出来事は、教会の一員になるということです。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」神と和解した者は、かつて敵意を抱いていたその相手と一つの体になっているのです。神を信じていながら、神の愛を信じていながら、キリストが自分のために十字架にかけられたと信じていながら、なお敵意を抱いたままであり、人と和解できないということは、あり得ないこと、あってはならないことなのです。現在、私たちのカンバーランド長老教会は米国カンバーランド長老教会というアフリカ系アメリカ人を中心とした教会と合同しようと準備しています。簡単なことではありませんが今年の総会で、カンバーランド長老教会はかつてアフリカ系アメリカ人に犯した罪を悔い改める文書を採択しました。あってはならない罪を重ねていた、と。私は奇跡だと思います。十字架のキリストが救ってくださったという良き知らせが和解の出来事を産み出そうとしているのです。

2024年12月22日の聖句

今週の聖句: 主にあっていつも喜びなさい。主は近いのです。(フィリピ4:4,5b) 今日の聖句: あなたこそわが希望なる主。わが神よ、私は若い時からあなたに信頼しました。(詩編71:5) 私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見て...