「心を高く上げよ!」という讃美歌があります。讃美歌はページの下の方を見ると参照すると良い聖書の言葉が掲げられています。この讃美歌には哀歌3:41があげられています。「天にいます神に向かって、両手を上げ心も挙げて言おう。わたしたちは、背き逆らいました。」悔い改めの言葉です。「キリストはわたしたちの平和であります」という言葉があります。「平和」と言えるのでしょうか、私たちは今。戦後71年を迎えた私たちの国は、今平和でしょうか。この世界は、今平和なのでしょうか。テロが止むことありません。戦争が続きます。心にかかり、心かきむしられることばかりです。今朝ドラで話題の「暮しの手帖」を読んでみましたら、こんな言葉がありました。「『空襲』を『空爆』と言い始めたとき。日本はいつから『平和ぼけ』になったのかという問いに、思想家・内田樹はそう答えたという。東京大空爆とは言わない、力空を見上げたから『空爆』と呼ぶ。」本当に私たちが「平和ぼけ」担ってしまっているのだとしたら、その責任の一端はキリスト教会にあるのだと思います。哀歌は戦争に敗れて今悲惨な目に遭っているのは、自分たちが神を無視していたからだと告白します。同じことが私たちの国でも起きてはいないだろうか。そうであるならば、真に神に申し訳ないことです。「キリストはわたしたちの平和」というのは、キリストが神に申し訳ございませんとしか言いようのない私たちのための平和になってくださったということです。昔の教会は桃源郷に生きていたわけではありません。むしろ私たちよりも厳しい時代を生きていました。「敵意という隔ての壁」という言葉があります。恐らく、パウロは具体的な壁を思いながらこう書きました。神殿には当時イスラエル人だけが入れるところを区切るための壁が本当にあったのです。神を信じる者の間にも差別があり、壁がありました。やがてドイツの大統領になったフォン・ヴァイツゼッカーさんが西ベルリン市長であった時代に、当時誰一人として崩れることを想像すらできなかったあの壁の前でこのように演説をしました。「この壁はやがて必ず崩れる。なぜなら、人間が造ったものに過ぎないのだから。」目の前の壁が本当人間を分断するのは、敵意がそこにあるからです。敵意に捕らわれている私たちを、キリストは新しい人にしてくださいます。新しい人になるとは、洗礼を受けるということ。洗礼を受けると起こる出来事は、教会の一員になるということです。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」神と和解した者は、かつて敵意を抱いていたその相手と一つの体になっているのです。神を信じていながら、神の愛を信じていながら、キリストが自分のために十字架にかけられたと信じていながら、なお敵意を抱いたままであり、人と和解できないということは、あり得ないこと、あってはならないことなのです。現在、私たちのカンバーランド長老教会は米国カンバーランド長老教会というアフリカ系アメリカ人を中心とした教会と合同しようと準備しています。簡単なことではありませんが今年の総会で、カンバーランド長老教会はかつてアフリカ系アメリカ人に犯した罪を悔い改める文書を採択しました。あってはならない罪を重ねていた、と。私は奇跡だと思います。十字架のキリストが救ってくださったという良き知らせが和解の出来事を産み出そうとしているのです。
2025年8月30日の聖句
主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1) こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15) 「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」 しかも、もったいないこ...