2016年8月7日日曜日

主エジプト記3:1-15「あなたは神を知っていますか?」

今日は「あなたは神を知っていますか?」という主題を掲げました。神を知るとは神という存在についての哲学的な知識を持っている、ということではありません。神を知るとは神の名を呼べるということ、つまり、祈れるということです。ディートリッヒ・ボンヘッファーが1944年の大晦日に「善き力にわれかこまれて」という詩を残しました。ナチに抵抗したボンヘッファー牧師はこの時入獄中で、翌年49日に処刑されました。この詩は神への祈りの言葉です。牢獄の中ででもボンヘッファーは神をお呼びして、祈りました。「われらに苦き杯を、溢れるばかりに満たされた苦しみの杯を、あなたが与え給うなら、われらはそれを恐れずに感謝して、あなたの慈しみ深き愛する御手から受け取ろう。」神を「あなた」と呼び、慈しみ深き愛する手が私に伸ばされていることを信じていたのです。祈れるとは、すなわち神を知るとは、神が私を愛してくださっていると知ることです。神が私の天の父としてこの私をも愛してくださっていると信じることです。ボンヘッファーが生きたのは夜の時代、闇の中にいるような時です。そこで神に従うなら、苦い杯を飲まなければなりません。そのようなときに神を父と呼んで祈ることを知っているとは、どんなに大きな慰めであり、力であったことでしょうか。クリスチャン新聞87日号に726日の津久井やまゆり園での事件を受けて、キリスト教障害者団体協議会の会長さんのコメントが載っていました。「この度の悲しい出来事に接し、私は教会が神さまの愛をもって人間を創造され、十字架の愛をもって救ってくださったことを、より一層力強くこの世に向けて語らねばならないことを思わされました。」この方は普段の生活の中で神を呼びながら生きておられるのだと感じました。弱い私を神が呼んでくださった、とおっしゃっていました。神に呼ばれ、私も神を呼んで生きている。そして、同時に神を呼んで生きる幸いを、神に呼ばれて生きる幸いを知っている者としての責任をも覚えておられる方です。神はその民の苦しみをつぶさにご覧になり、その痛みを知る方だからです(出3:9)。ボンヘッファーは『現代キリスト教倫理』という本の中でこう言いました。「教会は告白する。教会は、イエス・キリストの御名をこの世の人たちの前で恥この御名が悪い目的のために間違って用いられることに対し、力を尽くして反対しなかった・・・。」つまりナチが神の名を騙りながらユダヤ人を殲滅したことを見過ごしにしたと告白している。神の御名を知り、神を呼ぶことを知っているはずの教会が神の御名を悪用する者たちを止めなかった、と言うのです。726日の事件の加害者は障害者がいなくなれば世の中がもっと幸せになると言っていたそうです。しかし、この加害者やナチだけの問題ではないと思うのです。5日の天声人語に、被害者遺族の率直な言葉が載っていました。「意思疎通の難しかった姉を『正直、恥ずかしい、かわいそう、と思ったこともある』。」この方の思いは私のような者が軽々しく言葉にしてしまうことを許さない重みがあります。続けてこのように言われます。「60年、彼女なりに一生懸命生きてきた。絶対に許せない」。お姉様への愛と苦しみがにじみ出ています。この言葉の率直さが、わたし自身のこころを探ります。私は、神の愛を裏切ってはいないだろうか?愛することをもって生きているのだろうか?知っているはずの主の愛の手を裏切る私、それが罪です。そこでは自分という存在の価値が過大だったり過小だったり、他者のことを面倒くさいと思ってしまったり、もっともらしい言い訳をしてみせたり。神が呼んでくださっているのは、どうしようもなくつまらん私です(出3:1-4)。神はそういうあなたの名前を呼んでおられます。慈しみを込めて。だから私たちも神を呼んで祈ることができるのです。

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22) (イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24) 風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の...