2017年2月26日日曜日

ルカによる福音書第4章1から4節「大審問官が支配する世界で」

今日から三週間かけて、主イエスが荒れ野でお受けになった悪魔の誘惑を伝える御言葉に耳を傾けます。教会の暦を重んじるところでは、受難節第一主日に読んでいるそうです。今年の受難節の最初の日曜日は実は来週なので一週間先取りということになりますが、三回の日曜日にわたって、この時期にこの御言葉に耳を傾けることには意味があると信じています。説教題に掲げた「大審問官」は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場する戯曲から採ったものです。次男イヴァンという無神論者が作ったという劇中劇です。主イエスが教会の異端審問官に火刑を宣告される。その根拠の一つが、この荒れ野の誘惑です。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」とサタンは言いますが、主イエスは「人はパンだけで生きる者ではない」と答えられた。それはまったく不適切だ。多くの民衆はそのようなことを求めてはいない。彼らはパンを求めている。私(審問官)にはそれを与えることができる。そうやってイエスを再び殺す。ドストエフスキーは教会を批判した。教会はイエスの言葉に信頼して、これに賭けて生きていないのではないか、と。ギクリとします。他の誰でもなく、私は、あのキリストの言葉を本気で信頼して生きているのだろうか、と問われているのだと思います。「パン」は、それに象徴される日常の生活そのもののことだと思います。毎日の生活の中で、私たちは本気でキリストの言葉に信頼して生きているのでしょうか?主イエスは「人はパンだけで生きる者ではない」とおっしゃいましたが、これは旧約聖書の申命記8:3の引用です。そこを開くとこう書いてあります。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」今、苦しんでいる今、神は、私をご自分の口から出る言葉によって生かしてくださっている、という信頼。これこそ、主イエスが悪魔におっしゃったことではないかと思うのです。確かに、大審問官が言うとおりに、石をパンに変えてくれる神の方が良いのかも知れない。そういう誘惑に私たちはさらされています。私たちのニードに応えてくれる神がいい。10年先も安心な保証をくれて、立ち所に病気を治し、私の思い描いた計画を実現してくれる神。でも、申命記に書いてありました。主なる神があなたを苦しめたのは、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせるためだった、と。マナ。イスラエルの人々が40年間荒れ野を旅していたときに神がくださったパンのことです。誰も知らなかった神の恵みを味わわせてくださった。マナ。神の恵みの味わい。それは何か?それは、キリストの味わいです。罪の赦しの味わいです。罪、それは、神を信頼できない私の罪です。神を信頼して生きられない私の弱さです。神を信頼しきっていないから、苦しみの中で呟いたり、怒ったり、諦めたりしてしまうのだと、自分のこととして私は思うのです。キリストが十字架にかけられたのはこの私の罪のためです。それは、毎日のパンの生活での、神への信頼の問題です。毎日の生活で具体的に神を信頼しない不安を生む私の弱さが、キリストがそこから私を救ってくださった罪です。この罪の赦しの味わいがあなたにも差し出されている。神に養われる新しい生活が始まっています。 

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...