2017年9月24日日曜日

フィリピの信徒への手紙3:2〜11「キリストの中に見いだされるために」


昨日、日本中会の伝道フォーラムが開催されました。これからのカンバーランド長老教会の各個教会の宣教のために、お互いを知り、共に祈り、共に同じ福音の御言葉に生かされていることを味わう集会でした。教会には具体的な顔があります。具体的な人間がそこにます。教会堂が建てられている地域社会の特性があり、教会の固有の歴史があります。お互いのために祈るというのは、それぞれ固有の課題のために祈るということです。詩編第56編にこのような言葉があります。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」神だけが持っていてくださる革袋に、私たちが人知れずに流した涙さえも蓄えられています。神が涙を覚えていてくださるのです。フィリピ2:10には、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」と書かれています。「その苦しみにあずかって」という言葉は、直訳すると「彼の苦しみの交わり」と書かれています。キリストの苦しみの交わりです。私たちが苦しむとき、私たちはそこでキリストの苦しみの交わりにあずかります。キリストと苦しみを共有する、いや、キリストが私たちの苦しみを共有してくださいます。教会はキリストの苦しみの交わりです。キリストにあって苦しみを共にするのです。ここにいる具体的な一人の人と、その苦しみを共にするところにキリストの苦しみを共にする交わりが生まれている。その苦しみの交わりである教会の中で、私たちは、自分が一体何者であるのかを発見するのです。私たちは、誰もが、一生懸命に生きています。プライドがあります。それが傷つかないように自分を守ります。パウロは誇り高い人物でした。自分のことをヘブライ人の中のヘブライ人と呼んではばかることがない。実際、そういう人生を生きてきた。それに熱心に信仰に生きてきました。自分はこれで良いと自信を持てた。しかし、自信はしばしば人を傷つけます。苦しみの交わりを疎外します。かつてパウロは信仰の熱心さにおいては教会の迫害者でした。非の打ち所のない行いに生きてきた。でも、私たちを救うのは、そういう自分の正しさや立派さや自分の信念を貫ける強さではないのです。「私たちには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」キリストへの信仰による義というのは、直訳すると、キリストの信仰によって、ということです。私たちがキリストを信じている信仰であるかもしれませんが、キリスト御自身が信じている信仰という意味でもあります。キリストの信仰によって私たちは救われるのです。だから、私たちには自分の立派さや強さは必要ないのです。いや、それどころかパウロはそれらを塵芥だと言い切りました。あってもなくても良いのではなくて、いらないゴミだというのです。キリストの内にいる者と認められるために。私たちは、神から、キリストの中で自分を発見して頂いたのです。私たちはキリストに包まれて、キリストの中に生きている。私たちは自分がどういう生き方をしてこられたかということで突っ張ったりいじけたりするのではなく、キリストの中に包まれていることで自分を確かめることができます。キリストの十字架が私たちを覆ってくださいます。だから、私たちは苦しみの交わりとして、隣人の痛みを共に負うことができるのです。苦しみの交わりこそ、私たちの喜びです。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...