「主は聖なる方。」三度、そう繰り返す。聖なる方は大いなる、恐るべき方。我らの王。礼拝されるべきお方だ。改革者カルヴァンは、我らは神を礼拝するために生きていると言った。礼拝とは、主を聖なる方らしくあがめることだ。聖なる方が私たちの間に住まわれたのがクリスマスの出来事である。聖なる方は飼い葉桶におられるのだ。私たちはこの方をあがめる。この世で無価値と捨てられた方の前に膝をかがめる。そのことを肝に銘じたい。
2025年4月7日の聖句
主は虐げられているすべての者のために、正義と公正を行う。(詩編103:6) だから、なすべき善を知りながら行わないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17) 主が、正義と公正を行われる。虐げられているすべての人のために。ここに、私たちのなすべき善がある。聖書はそのように言いま...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...
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これほど深い絶望の言葉があるのか。神に見捨てられた。しかも「わたしの神」と呼ぶ方に。昨日までは親しい思いを抱いていたのか。今なお愛を込めて呼ぼうとしているのか。神は応えてくださらない。「主に頼んで救ってもらうがよい」などと誰に言われずとも自分が一番願っている。しかし、助けは来な...