主なる神さまが私を極め、私を知っていてくださる。私のまことの父として、私を神の子として、知っていてくださる。それが神を信じる者の喜び、慰めです。神さまは私のすることなすこと、心の思いまでも、すべてを知っておられます。一粒のちりのような私のことを、その髪の毛の一本も、神さまは知っておられます。見張られているみたいでイヤだ、と思うでしょうか?お風呂に入っているときもトイレにいるときのことも知っているのだとしたら、さすがにちょっと…と思う人もいるかもしれません。でも、ある意味そうなのです。親は小さな子ども下の世話だってします。全部見るし、子どももそのことを恥ずかしいとは言いません。そこに、信頼と愛情があるからです。しかし、そうは言っても人間の親は不完全です。子どものことだって分からない事がたくさんあるし、子どものためにしていると言ったって実は身勝手な動機でしていることもいくらでもあります。「私の道(3節)」は迷いの道だし、「私の舌(4節)」が語ることは本来言うべきではないようなことばかりです。でも、そんな私であることをすべて知って、私を極めて、その上で神は私たちをご自分の子どもとしてくださいました。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう」と言っています。この「霊」という言葉は「息」という意味もあります。神さまのみ顔は近い。息がかかるくらいに。例え天に上っても、あるいは陰府に身を横たえても、そこでも間近に神さまの御顔があって、その息吹は私に届きます。闇の中でさえも、神は私を見ておられます。陰府というのは、死の世界です。詩編第88編などにも出てきますが、陰府というのは、神がおられない全くの絶望の世界です。死の世界です。闇もまた恐怖を生み出す。神の手が届かない場所という思いがします。私たちには、神がおられるのは光の世界、昼間の世界のことであって、それは理想の世界、綺麗事の世界というような思い込みがどこかにあるのではないでしょうか。人間のドロドロした世界のことは、聖書とは違う現実の世界だと考えてしまってはいないでしょうか。この詩編ではどこに行っても神がおられると言うけれど、実際にはどこを探しても神はおられないということのほうがむしろ現実だと…。イスカリオテのユダは闇夜の中に隠れて、イエスを裏切りました。闇の中にある世界で、今のイエスのやり方では通じないと思ったのです。それで裏切った。しかし、ユダの裏切りでイエスが捕らえられ、裁判にかけられると死刑判決が下りました。絶望を深めたユダは自殺しました。暗闇の中に沈み込んでしまいました。主イエスはそんなユダをどうなさるのでしょうか。イエスは、ユダが死んだ数時間後に十字架にかかり、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。死んで、墓に葬られ、陰府に降りました。ユダを追いかけるようにして。陰府にも主はおられる。闇にも主はおられる。闇よりももっと深い闇を主は知っておられる。闇も神に比べれば闇とは言えない。昼も夜も共に光を放ちます。主がそこにおられるからです。神はこの私に命を与え、私を形づくってくださいました。親には子どものいのちを造ることなんてできやしない。しかし、神にはできます。その驚くべき御業によって私を究めておられる方こそ、私の真実な救い主イエス・キリストその方なのです。
2025年1月11日の聖句
私は彼らと平和の契約を結び、これは永遠の契約となる。(エゼキエル37:26) 今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、恵みと平和があなたがたにあるように。(黙示録1:4,5) 聖書は神さまと私たちとの関係を「契約」という言葉で表します。例えば、箱舟を降りたノアに神さまは、虹...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...