2018年4月29日日曜日

マタイによる福音書第14章22から33節「疑わずに、信じよう」

おぼれたこと、ありますか?私はあります。おぼれたことがある人間にとって、水は恐ろしいものです。泳ぐのが得意な人はよく身体の力をぬけば自然と水に浮くというようなことを言いますが、私にはまずできません。怖いから力が入ってしまいます。そうすると苦しくてますます身体が硬くなります。悪循環です。恐怖のせいで自然にそなわっている浮力に信頼できないで、疑っているからです。頭で分かっていてもどうにもできないのが恐怖心なのかも知れません。ペトロは、逆風に悩む舟に水の上を歩いて近づいてきた主イエスを見て、主に願ってそちらの方へ水の上を歩いて行かせて頂きました。ところが強い風に気がついて怖くなり、沈みかけ、主に助けていただきます。主イエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言う。ペトロは疑った。その疑いは、具体的には恐れです。恐怖心です。怖くて信じ切れなかったのです。水は、聖書の中ではしばしば滅びや混沌の象徴として登場しています。自分ではどうすることもできない圧倒的な力。死や病と言っても良いかもしれません。あるいは、この波風は舟を襲いました。舟は、これまたしばしば教会の象徴として登場します。教会を襲う混沌の力。教会が教会であることをやめさせようとする力。教会のこれからが話題になると、よく、若い人が教会に来ないことが問題だと言われます。確かに、私たちが主イエス様に与えられた宣教の使命を十分果たせていないことは大きな課題として謙虚に受けとめなければならないと思います。しかし、「若い人」がいないから将来がないというのは、ずいぶんとこの世の物の見方です。教会は、人間の能力や力が何をするかにまさって、神様がここで何をしておられるのかということによってこれまで生きてきたのではないでしょうか。もしも私たちが神様に期待することを止めてしまったとしたら、それは「教会ならでは」の力の秘密を放棄してしまうことになるのかも知れません。私は生来の恐がりで、世の中に怖いものがたくさんあります。未来だって怖い。しかし、恐怖は不信仰と地続きです。神が見えなくなるからです。神が見えなくなるというのは、私たちの信仰生活の中でキリストが非現実的な存在になるということです。私たちの実際の生活の中で、キリストはリアルなお方でしょうか?それよりも目の前の問題の方が余程リアルで大きくて、力強いのでしょうか?弟子たちは、舟に近寄ってくるイエスを見て「幽霊だ」と言いました。湖の真ん中、激しい逆風、沈みゆく太陽、そんな状況の中でキリストが被現時的だと思い込んでいたからです。実は今日の話は近現代になって聖書に批判的な人々のやり玉に挙がる箇所でした。そもそもイエスは湖上を歩いてなどいない。湖畔を歩いていたのに弟子たちが恐怖のあまりに水の上を歩いたと勘違いしたのだと言われます。そのようなことを言われても証明のしようは確かにありません。しかし、私は証明の必要すら感じない。なぜなら、こうやって逆風に悩まされる舟に近寄り、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言ってくださっているというのは、わたし自身が日々経験していることだからです。私にとってキリストは常に現実的な方です。弟子たちと同じように恐れ、疑い、主に叱責されながらもひれ伏し、「本当に、この人は神の子だった」と告白する。それが信仰生活、教会生活そのものです。キリストは今日ここに来ておられます。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...