2018年9月16日日曜日

コリントの信徒への手紙一3:1-9「自分の本性に立ち帰れ」

 「兄弟たち」という呼びかけから始まっています。パウロの、愛を込めた呼び声です。愛と情熱を込めて、この手紙を読む者たちに、何とかキリストの福音に帰ってほしいと呼んでいます。ここでパウロが書くのは、とても厳しい言葉です。コリント教会に向かって、あなたたちはまるで乳離れできていない赤ちゃんのようだ、と言います。ひどい侮辱だと思われかねません。しかし、そこまで厳しい言葉であっても言わないわけにはいかない。信仰の命にかかわるからです。兄弟たち、キリストの許に帰ろうと呼びかけているのです。
 乳飲み子は、まだ固い物を食べられません。今、わたしの娘は離乳食を食べています。少しずつ固いものに変わっていきます。やがて乳離れして、自分で必要な栄養を食べるようになっていくのでしょう。子どもの成長、特に肉体の成長は目に見えやすい。しかし、私たちの心の成長、信仰の成長はどうなのでしょう。コリント教会の人々が、ほ乳瓶を加えて礼拝に来ていたというわけではもちろんありません。ねたみや争いがあった、わたしはパウロに、わたしはアポロにと言って党派争いをしていた。そういう生き方に現れてくる信じ方は、成長できていない子どものままだというのです。人間が集まれば、必ず生まれるのがねたみや争いです。学校に行く子ども同士でも、PTAにいる親でも、職場の人間関係でも、隣の家の人が相手でも、人の芝生は青く見えます。私たちは比較の世界で生きています。教会でだって、私たちはねたみや争いを経験する。教会こそ、その問題で傷ついている。その証拠に、日本の人口1%にも満たないキリスト者に対して、一体どれだけたくさんの教派に分裂を繰り返してしまったことでしょう。そのようなこと一つを取ってみたとしても、パウロは私たちの仲間割れを見て、それでは「ただの人として歩んでいる」にすぎないと言うのです。パウロはコリント教会の初代牧師で、福音の真理を教えてくれました。アポロは都会のインテリで、教養に溢れ弁論に優れていました。そういう指導者たちの中からお気に入りを見つけて党派争いをしているときに、教会から一体何が失われているのか?5,6,7節を見ると、主が、神が、神が、と繰り返し神さまのお働きに目を向けさせようとしていることに気づきます。私たちが人の魅力や厭なところに目を奪われたとき、実は私たちの内で働いてくださっている神さまを見失っているのです。
 パウロは父とか固い食物とか言っていました。これらは、何を意味しているのか?言い換えれば、パウロが語り続けてきた福音は、一体何でしょうか?それは、言うまでもなく十字架のキリストです。十字架の言葉です。私たちは、十字架にかけられた方を食べるのでなければ、神を信じ続けることができないのです。私たちの目は、どうしても人間の魅力や自分の好みに合わない人の厭なところにばかり吸い寄せられてしまいます。しかし、パウロは神さまにあって、自分のことや人のことを見ることを知っていました。神の同労者としてのわたし。神の畑、神の家としてのあなたたち。そう。私たちはキリストにあって神の畑なのです。豊かな実を結ぶ神の畑。キリストの和解の実を結ばせ、私たちがそれに生きるために、神は十字架の言葉を聞かせてくださっています。

2024年12月24日の聖句

あなたの神、主があなたに与えられた祝福に応じて、おのおの手ずから贈り物をしなければならない。(申命記16:17) (東方の博士たちは)ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2:11) 東方の博士たちが幼子イエスにお献げした三つの贈り物...