日本福音ルーテル東京教会の関野和寛牧師が、昨日、ツイッターにこんな書き込みをしていました。「聖書を開いて1日を始められる幸せ。人が誉める声でも、批判の声でもなく、神の声を聞ける喜びを。」すてきなツイートです。私たちはいつも忙しいですし、いろいろな声にさらされて生きています。私たちを誉めたり批判したりする声は、時に、私たちの心を神さまの許から奪い去ります。もちろん、人の声に耳を傾けられなくなってしまっては問題もあるでしょう。しかし、人からの評価を気にしすぎて、本当に大切な物差しを失ってしまうこともしばしばです。この手紙を書いたパウロは、コリント教会からの評価にさらされていました。初代牧師のパウロ、雄弁で有能なアポロ、本家本元のケファ(ペトロ)を比較し、教会の中には派閥さえ生まれていました。人々の評判でパウロが傷ついたということもあったかもしれませんが、それよりもこの分派争いが教会を損なうと見抜いていました。それで、パウロは人の評価や比較に左右されず、自分の生きるべき基準をしっかりとわきまえていたのです。「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです」と言っています。この軸がはっきりとしていたので、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と言えたのです。
私たちは常に人からの評価にさらされています。イスラエルの初代国王サウルは人の評価に弱い人物でした。サウルが王になってすぐに大国ペリシテが責めてきました。兵たちは怖じ気づき、洞窟や岩の裂け目に隠れてしまう始末。戦場で次々に少なくなる兵や自分への批判を聞き、サウルは参ってしまいます。その時、信仰的な指導者のサムエルがそこに来て一緒に礼拝し、祈ってくれる約束でしたが、約束から一週間経っても来ず、しびれを切らしたサウルは祭司しかしてはいけない礼拝を自分の手で行います。そこにサムエルが来て、厳しく叱られてしまった…。サウルの考えの基準は、人からの評価や評判でした。だから軸がぶれて、大切にすべき事を大切にできなかった。
パウロはサウルが見失った軸に生き続けた人です。「神の秘められた計画の管理者」として忠実に生きました。管理者とは、英国のお屋敷の執事や、日本なら番頭さんのようなものです。大きな責任を任されていますが、主人に忠実であることが求められます。畑で働く小作人なら、所有者に忠実です。建物を建てる大工なら、施主に忠実です。神殿の祭司なら、神に忠実です。パウロはキリストに忠実です。だから自分の評判を上げようとか、自分の派閥を大きくしようなどとはさらさら考えてもみない。そんなことを基準にはしません。しかも、この管理者が仕えるのは「神の秘められた計画」です。原語では「神の秘密」という字です。神の秘密は、時に私たちにはあまりにも大きく、不安に襲われることもあるかもしれません。サウルのように。すると私たちは人の評価が気になり出します。しかし、神は御自分の秘密を明らかにしてくださいました。キリストの十字架でした。御子を十字架にかけて私たちを救おうと神はなさいました。このキリストに忠実に生きようとしたとき、人の裁きも、自分の裁きも意味を持たなくなった。キリストが「忠実なよい僕よ、よくやった」と誉めてくださるそのときを待ち望みましょう。