2019年1月11日金曜日

2019年1月11日(創世記20〜21)

今日の通読箇所:マタイによる福音書9:18~38、創世記20~21、詩編15

創世記20~21;
ゲラルというところに滞在していたとき、アブラハムは、またもや妻サラのことを妹だと偽りました。同じ過ちを二回も繰り返したのです。ゲラルの王アビメレクがサラを見初めて、サラは輿入れしてしまいました。しかし、その夜にアビメレクは夢を見、その中で神様が彼の過ちを指摘し、アビメレクはサラと関係する前にアブラハムの妻であることを知ってサラはアブラハムのもとへ帰ることになります。その時に神様がアビメレクに言った言葉が問題です。
「さあ、あの人の妻を帰しなさい。彼は預言者であるから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。(20:7)」
そもそも、アブラハムがあのような嘘をつくから、こんなことになったのに!驚くべき言葉です。アブラハムにしても、アビメレクのために祈るのは、自分自身の罪の告白そのものになるのではないでしょうか。
もう一つ、驚くべき事があります。アブラハムが祈ると、神はアビメレクの妻とその侍女たちが子を産むことができるようにした、とあります。今回の出来事のために、神が彼女たちの胎を閉ざしていたのだ、と言うのです。そして、その直後、第21章に入ると、新展開になる。「彼女(サラ)は身ごもり、年老いたアブラハムに子どもを産んだ。・・・アブラハムは、サラが生んだ自分の子どもをイサクと名付けた。(21:2~3)
アブラハムにとって、イサクの誕生は、何重にも自分の罪の自覚を深く促す出来事だったのではないかと思います。自分の神様や隣人への不信頼のためにゲラルの女性の胎が閉ざされたこと。その罪が露見したこと。それでもなおゲラルの人々のために祈ったこと。かつて、子どもが生まれるという神の約束に失望したこと、その言葉を笑ったこと。神様への不信頼。しかし、それをすべて超えて、神様は大いなる御業を行って、イサクを与えてくださいました。アブラハムを通してすべての民を祝福する御業を、私たちの不信頼にもかかわらず、進めてくださっているのです。神の恵みは、それを私たちが頂いたときに私たち自身の罪を自覚させます。神の恵みの中で初めて自分の罪に気づきます。しかし、それは同時に、もうすでにキリストの恵みで赦された罪なのです。

2025年1月11日の聖句

私は彼らと平和の契約を結び、これは永遠の契約となる。(エゼキエル37:26) 今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、恵みと平和があなたがたにあるように。(黙示録1:4,5) 聖書は神さまと私たちとの関係を「契約」という言葉で表します。例えば、箱舟を降りたノアに神さまは、虹...