2019年1月24日木曜日

2019年1月24日(創世記39〜40)

今日の通読箇所:マタイによる福音書19、創世記39~40、詩編28

創世記39~40;
商人に拾われたヨセフはエジプトへ連れてこられ、ポティファルという役人に買われます。その家で信用を勝ち得たヨセフは、家の財産の管理までするようになりました。ところがヨセフを見初めたポティファルの妻は彼と床を共にしようと、何度も誘惑します。しかし、ヨセフはそれに応じない。ついに無理矢理服を掴んで「私と一緒に寝なさい」と迫る彼女から逃れたヨセフに対して、ポティファルの妻は怒りを燃やします。ヨセフに襲われかけたと嘘をつきます。ポティファルはそれを信じたのか、あるいは信じたことにせざるを得なかったのか、怒りに燃えてヨセフを牢にぶち込みました。
牢の中でも、ヨセフは牢獄長の信用を勝ち得ました。あるとき、ファラオの献酌官と料理長が罪を犯して牢に入れられました。彼らはそれぞれ夢を見た。それぞれの意味を説き明かすヨセフ。牢から解放された献酌官に、自分の身の潔白をファラオに伝えてほしいと頼みましたが、結局は忘れられてしまいました。
ヨセフには苦しみが続きました。ポティファルの家でも、牢の中でも、彼は責任ある人の信用を得ましたが、罪をなすりつけられたり、存在を忘れられたりしてしまいました。しかし、そんな中で聖書が繰り返しているのは、「主がヨセフと共におられた(39:2)」ということです。私は、この事実は、深い真理を私たちに伝えていると思います。主は、牢獄の中でも私たちと共にいてくださいます。ところが、どうでしょう。私たちからしたら、そういう最悪の時、神は私を見捨てたのだ、忘れてしまったのだと簡単につぶやいてしまいます。しかし、まさに罪なきことで罪をなすりつけられ、牢に囚われ、善意を尽くした相手から忘れられるようなとき、まさにそういうときに、神様は共にいてくださるのです。神様は、最悪の時にこそ共におられます。私たちの目にうまくいったと映ろうが映るまいが、神様が守っていてくださると感じられようが感じられまいが、牢屋の中で確かに神は共にいてくださいます。そのことを信じましょう。この神の故に、私たちは希望を抱いていましょう。今日一日も神様の祝福が豊かにありますように。祈りつつ。

2025年4月26日の聖句

金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。(コヘレト5:9) 私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。(1テモテ6:7~8) 本当にそうだな、と思います。「金銭を愛する者は金銭に...