2019年1月25日金曜日

2019年1月25日(創世記41)

マタイによる福音書20、創世記41、詩編29~30

創世記41;
ヨセフの人生が、再び大きくうねり出します。ファラオが見た不思議な夢を誰も解き明かすことができなかったとき、もう2年も前に牢獄の中でヨセフに夢を解き明かしてもらった献酌官がヨセフのことを思い出し、ファラオに彼のことを伝えました。ヨセフは牢から出され、ファラオの前に連れてこられ、夢の話を聞かされます。彼は、その夢の意味を見事に説き明かしました。その知恵に感心したらファラオは、彼を宮廷を治める者としました。彼の指導によって、エジプトの国は来る七年に及ぶ飢饉への備えをしたのです。
ここに来るまでのことを思い出すと、神様の不思議な導きを思います。エジプトに連れてこられて、ヨセフは最初ポティファルという男に買われて、彼の家で使えていました。やがて信頼を得て、その家と財産を委ねられました。しかし、ヨセフは主人ポティファルを重んじ、その妻にも終始主人の妻として接します。やがて捕らえられた牢獄でも、彼は牢獄長の目に適い、牢獄にいる囚人を取り仕切ることになります。ここでも、牢獄長がいて、ヨセフは実質的な業務を任せられることになります。そして今回のエジプト全体のことについても、実質的な政治を取り仕切りますが、彼の上にはファラオがいます。
思えば、ヨセフはいつもナンバー2です。しかし、その責任の範囲は、一家のこと、牢にいる囚人全体、そして国家全域と広がっていく。神様が、苦しみの中で彼を育て、やがて来る働きのために成長させてくださったのではないでしょうか。
この神様のご支配について、今朝の聖書の御言葉では、面白いことに、おそらく地の文では特に何も言っていません。ただ、ヨセフとファラオの口を通して、神の御業を語っています。「神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです(28節など)。」「このように神の霊が宿っている人を他に見つけられるだろうか(37節)。」私たちも、同じだと思うのです。私たちの目には神様のご支配やその御業は見えません。ただ信仰の目を開くとき、神様の御業を知ることができます。神様の御手が見えてきたとき私たちが知らされるのは、これまでのどんな紆余曲折にも、意味があったと言うことではないでしょうか。私たちを訓練し、神様のご用に役立つ者にするために、神が練り清めてくださっている。だから、私たちの今の悩みや悲しみにも、見えない神様の御手の中で、尊い意味があるのです。

2024年12月22日の聖句

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