今日の通読箇所:マルコによる福音書3:20~35、民数記27~28、詩編92~93
民数記27~28;
ツェロフハドの娘たち、という人が登場します。彼女たちの名前は26:33にも登場しています。マナセ族の一員で、ツェロフハドという人には息子がおらず、娘だけだったと記されています。彼女たちはモーセのところに来て訴えます。自分たちの父は荒れ野ですでに死んだこと、そして父には息子がいなかったこと。そして、言うのです。「息子がいないからといって、どうして私たちの父の名が氏族の中から除かれなければならないのでしょうか(27:4)」と。これに対し、主なる神様は訴えの正しさを認めて、彼女たちが土地を相続することができるように法の不備を判例によって是正します。
これは、時代を考えると実に驚くべき事であると思います。聖書もある時代やそこで背景となる価値観と無関係に存在しているわけではありません。しかし、古代の父権社会の中で娘の相続をすでに認めているのです。それは、世の中の当たり前ではない聖書の新しい視点であったのではないかと思います。
その前提となるのは、神様が、一人ひとりの名を呼び、覚えていてくださるという事実なのではないかと思います。第26章にツェロフハドの娘たちが出てきたとき、すでにマフラ、、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァと名前をちゃんと記録しているのです。神様は、私たちが社会の中でどんなに小さくされていても、私たちを覚えていてくださいます。私たちが誰の目から見ても、小さく乏しいものであっても、主は私たちの名前を覚えていてくださいます。ここでは、父の地を息子が受け継ぐという当時の社会の「常識」が相手でした。私たちの社会の「常識」や「当たり前」を括弧の中に入れて、神様の御前に疑問に伏してしまいます。私たちの名を覚え、私たちの尊厳を守り尊んでくださる。キリストの愛の目は、私たちにも向けられています。
2025年7月18日の聖句
私たちの背きは眼前に立てられていて、私たちは自らの罪を知っています。私たちは主に背いて欺きました。(イザヤ59:12~13) たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。(1ヨハネ2:1) なんとありがたく、恵みに満ちた御言葉なのでしょう...
-
さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
-
神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
-
仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...