2019年3月2日土曜日

2019年3月2日(レビ記20〜21)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙2、レビ記20~21、詩編72

レビ記20~21;
「イスラエルの人々に言え。イスラエルの人々であれ、イスラエルにとどまっている寄留者であれ、自分の子どもをモレク神に献げる者は必ず死ななければならない(20:1)」。ここで言う「モレク神に献げる」というのは、おそらく人身御供として献げるという意味であろうと思います。そう聞くと、現代に生きる私たちはすぐに古代の人は残酷だな、と簡単に考えてしまいます。しかし、それだけで済むのでしょうか?
ルターがこのように言ったそうです。「あなたがあなたの娘を喜んで献げる相手、それがあなたの神である」と。私がこの言葉を知ったのは、アメリカ人が書いた本を通してです。著者は、ルターの言葉を紹介しながら、私たちはアメリカ市民として国家のために喜んで子どもを献げると言ってはいないか、それはアメリカを神にしているのではないかと問います。
この本はあくまでもアメリカ人の牧師が自分の同胞に問うたものなので、私たちは私たちで、自分自身に問うべきでしょう。私たちは、何を神として生きているのでしょうか。少し前にキリスト者である私の親族に子どもが生まれて、幼児洗礼の話になりました。その人は、幼児洗礼によって子どもに信仰を押しつけたくないと言いました。確かに押しつけによっては信仰は成り立ちません。しかし、親は信仰以外については実にしばしば特定の価値観を押しつけています。むしろそのことに自覚的でなければなりません。豊かさや自己実現という価値観は、この世界でほとんど宗教的な力を持ちます。消費主義は、知らず知らずのうちに私たちにとってキリストにある豊かさよりも価値あるものになってはいないでしょうか?子どが他人よりも上手であること、大人にとってのいい子であることを求めてはいないでしょうか。いや、子育て世代だけの話ではない。私たちは、自分の娘や自分自身を、モレク神に献げてはいないでしょうか。
主イエス・キリストの父なる神は、却って、私たちのために御子を献げてくださいました。神の献身によって、私たちは生かされているのです。

2024年12月22日の聖句

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