今日の通読箇所:マルコによる福音書2、民数記24~25、詩編90
民数記24~25;
イスラエルの人々がシティムという場所にいたときのこと。彼らはモアブ人の女たちと淫らなことをし、彼女たちの神々を礼拝しました。主の怒りが、彼らに対して燃え上がりました。疫病が蔓延したのです。さらにその時、イスラエルのある男が皆の前にミデヤン人の女を連れ込んできた。それを見た祭司ピネハスが手に槍を持ち、この二人を突き刺した。それによって、イスラエルを襲った疫病がやんだのです。
恐ろしい事件です。さらに、10節からの主なる神様の言葉が、さらに読む者を戸惑わせます。「ピネハスは、私の熱情をイスラエルの人々の前に示すことで、彼らのうちから私の憤りを取り去った。それで私は、私の熱情のためにイスラエルの人々をたち滅ぼすことはしなかった(25:11)」。ピネハスの行動は、神様の御心に適っていた。それどころか、神様の御心のうちの熱情を共有し、映し出す物だったとまで言っているのです。あまりの激しさに、これをどう受け止めていいのか、分からなくなってしまいます。
しかし、私は改めて考えさせられました。神様や隣人を裏切ることがどんなに周囲の人や神様を悲しませ、また憤りを買う行いなのか、自分はそのことを甘く考えているのではないか、と。自分の無責任に対する認識があまりにも甘いので、神様の怒りやピネハスの熱情を、どこか異様に感じてしまっているのではないか、と。
思えば、神様の熱情の激しさは、神様の一途な愛の表れです。そのような激しい愛のお方だからこそ、主イエス・キリストまでも私たちのためにくださった。そこまでして、神様ご自身の命をかけて、私を愛してくださった。この出来事が物語るのは、神様の愛の激しさだったのではないでしょうか。この神様の熱情的な御心が、私たちに命を与えてくださっているのです。--
2026年2月2日の聖句
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