2019年4月28日日曜日

コリントの信徒への手紙一第12章1から11節「賜物」


 4節に「賜物」という言葉があります。元々の言葉ではカリスマと言います。カリスマはすでに日本語になっています。カリスマ店員、カリスマ美容師と言えば、接客や美容の技術がずば抜けており、多くの人がその魅力を感じるということでしょう。カリスマがある政治家と言えば、人を惹き付ける強烈な個性と政治的実行力の持ち主でしょうか。いずれにしてもその人に備わる才能や魅力といった意味合いだと思います。しかし、本来のカリスマという言葉は、恵みの賜物という意味です。賜物、読んで字のごとく、賜った物。カリスマは英語の聖書ではgiftと訳されていますが、神に与えられたものということです。
 Iさんが亡くなりました。それこそカリスマに溢れた方でした。おからや水ようかんが絶品だったとよく聞きます。友の会では家計の先生だったそうです。Iさんは今から18年前に洗礼をお受けになりました。私は、彼女の存在自体が、この教会に与えられたカリスマそのものであったと思います。教会は神に与えられたカリスマで形づくられています。
 4から6節を見ると、私たちの賜物は多様だが、それを与えるのは同じ霊、同じ主、同じ神、と言葉を重ねています。霊、主、神。そこに、多くの人が三位一体を読み取ります。神は父、子、聖霊なるお方。そのように神を信じる三位一体の教理が言葉としてまとめられるのは、パウロの時代よりももっと後のことです。しかし、ここにはすでに三位一体なる神様のお働きが見えてきている。父なる神様は、この世界をつくり、私たちのために御子イエスを送ってくださいました。イエスは私たちと同じ人として生き、私たちに憎まれ、十字架の死を死なれました。神はこのイエスをそのままになさらず、死者の中から復活させられました。聖霊は、この父と子との愛の絆です。神さまご自身の、私たちとの豊かな出会い方、そのお働きの愛に満ちたすばらしさを、私たち教会が映し出しているとパウロは考えていたのではないかと思います。いろいろな人がいて、それぞれに賜物があり、しかし愛し合って互いを喜び、一つになるとしたら、それは神の恵みの奇跡です。教会自体が賜物です。
 しかし、教会はユートピアではありません。コリント教会が、すでに疵を抱えていました。貧しい人が遅れてくるのを待てずに食事を始めている。子どもでも分かるような過ちを犯していた。社会での貧富の差が持ち込まれ、教会の中でも力を振るっていました。傷つく者がいた。才能、能力、個性、生き方、身分、考え方、ありとあらゆるものが違う者たちが一緒にいきられるのは、なぜなのか?同じ神が下さった賜物だ、ということいがいには理由はありません。神さまが、私たちを一つの教会として結び合わせてくださるのです。
 私たちを一つにするというとき、その神さまの御業には軸があります。それが「イエスは主である」という告白です。私たちは、互いにこの告白に生きるために、一つにされているのです。この世界でキリスト告白に生きることは容易ではありません。近年その困難さが増しています。今社会は新しい時代を迎えると言って浮かれています。そこで同調圧力に踏みつけられている人もいます。私たちの主はだれなのでしょうか。私たちが一つにされているのはキリストを神と崇めるためです。

2024年12月22日の聖句

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