今日の通読箇所:ルカによる福音書5:17~39、申命記32、詩編119:33~48
申命記32;
この章に記録されている歌は、前の章で「あなたがたは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、彼らの口に起きなさい。そうすればこの歌は、イスラエルの人々に対する私の証言となる(31:19)」とモーセが言った歌です。
ここで証言されているのは、何よりも、神様の慈しみです。「主は荒れ野で、獣の吠える不毛の地で彼を見つけ、彼を抱き、いたわり、ご自分の瞳のように守られた。鷲がその巣を揺り動かし、雛の上を舞い、羽を広げて雛を取り、翼に乗せて運ぶように、ただ主だけが彼を導き、異国の神は共にいなかった(32:10~12)」。私に命を与え、生かして下さった方がおられる。それが、私たちの原点です。
「しかし、エシュルンは肥えると、足で蹴った。あなたは肥え太り、かたくなになった。自分を造った神を捨て、自分を救った岩を侮った(15節)」。満足すると、神に感謝することもへりくだることもなく、傲慢にも神を足蹴にする始末・・・。神様の御前で自分を静かに省みるときに、認めざるを得ない現実です。「実に、彼らは思慮のない国民、彼らには分別がない(28節)」というのは、我が身のこととして、本当のことです。
それなのに、主なる神様は私たちを見捨てず、手を伸ばしてくださいました。「主はご自分の民を裁き、僕らを憐れむ(36節)」。主が憐れんで、私たちを救ってくださる。ただそこにだけ、私たちの救いがある。そのことを思い出してほしいとモーセは訴えたのではないでしょうか。私たちも、この神の民の末席に連なる者として、神様の御前に、その大きな慈しみと我が身の罪、しかしそれ以上に大きな赦しをいつも心に留めていたいと願います。モーセは言います。「あなたがたは、私が今日あなたがたに証言した言葉をすべて心に留め、子どもたちに命じてこれらの律法の言葉を守り行わせなさい。これは、あなたがたにとって空しい言葉ではなく、あなたがたの命だからである(46~47節)」。アーメン、と答えたい。私たちの命は、主の御言葉にあるのですから。
2026年3月23日の聖句
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