今日の通読箇所:ルカによる福音書6:1~26、申命記33~34、詩編119:49~64
申命記33~34;
モーセの120年にも及ぶ長い生涯が終わりました。彼は、神がイスラエルの人々に与えると約束してくださった地に入ることはできませんでした。しかし、神様はモーセにそれを見ることを許してくださった。
「モーセはモアブの平野からネボ山にあるピスガの頂に登った。それはエリコの向かいにあり、主は彼にすべての地を示された。すなわち、ギルアドからダンまで、ナフタリのすべてと、エフライムとマナセの地、西の海までのユダの全土、ネゲブとツォアルまでのなつめやしの町のエリコの谷の地方である(34:1~3)」。
ここにダンやナフタリ、エフライム、マナセ、ユダなどの名前が地名として付いています。これらはイスラエルの部族の名前です。それぞれの部族に与えられる地が、すでに彼らの部族名で書かれている。まだそこには行っていませんし、それを獲得もしていません。しかし、モーセはもうすでに与えられたものとしてそれを見つめています。
私は今朝の聖書の御言葉が、とても好きです。そしてこれを読むと、1968年4月3日、キング牧師の最後の説教を思い出します。翌日、彼は暗殺されました。彼は言います。「私自身、自分の身の上に何が起きるかは分からない。これから相当困難な日々が私たちを待ち受けている。でも私はそんなことはもう気にならない。私は山の頂に登ってきたからだ。だからもう気にならない。たしかに私も人並みに長生きをしたい。長生きにはそれなりの意味がある。でも今の私には重要なことではない。今はただただ神の意志を体現したいだけの気持ちでいっぱいだ。神は私を山の頂まで登らせてくれた。頂から約束の地が見えた。私自身は皆さんと一緒には約束の地に行けないかもしれない。でも知ってほしい。私たちは一つの民として約束の地に行くのだということを。だから私は今うれしい。私はどんなことにも心が騒がない。どんな人も怖くない。主が栄光の姿で私の前に現れるのをこの目で見ているのだから。」ここにも、神の約束の実現をすでに見ている一人の預言者がいるのです。