2019年5月13日月曜日

2019年5月13日(士師記15〜16)

今日の通読箇所:ルカによる福音書13:22~35、士師記15~16、詩編142

士師記15~16;
新妻に裏切られたサムソンが、もう彼女を嫌っていた者と思い込んだ父親は、彼女をサムソンの友人に与えてしまいました。「あなたが彼女を嫌ったと思い(15:2)」と言い訳していますが、本当はサムソンと関わり合いになりたくなかったのかもしれません。しかし怒るサムソンをなだめるために、妹を与えようとします。しかし彼は怒り、ペリシテを襲いました。それに怒ったペリシテの同胞によって、元妻とその父は殺されてしまいます。そして、怒るペリシテ人が攻めてきたのとを見てイスラエルは恐れ、サムソンをなじりますが、サムソンはペリシテ人を一捻りにやっつけてしまいました。
一事が万事この調子で、彼はあまりものを考えずにその場の感情にまかせることが多かったようです。それは単に思慮が浅いということではなくて、やはりこの士師記の文脈で考えると、いつも敵の前にいるという感覚の欠如、油断があったということだと思います。
彼はやがてデリラという遊女を見初めました。しかし彼はペリシテ人に買収され、サムソンの怪力の秘密を色仕掛けをつかって彼から聞き出そうとします。ついに彼は耐えきれなくなり、自分が生まれながらのナジル人で、髪の毛を剃ってしまえば主への請願が破られ、その力が消えてしまうことを告白しました。彼女の膝枕で寝ていたサムソンは、デリラの手で髪を剃られ、ペリシテ人に捕らえられてしまいます。まさに、油断していたのです。
神様は、私たちにそれぞれいろいろな賜物をくださっています。しかしそれが神に与えられた力であることを忘れると、慢心が生まれます。慢心は油断を産み、油断は神を忘れさせます。神に与えられたものを、まさに神に与えられたものとして、感謝をして神にもう一度献げたい。サムソンは、最期に命を賭してそのようにしたのかもしれません。聖書を読んで、そう思いました。

2024年12月25日の聖句

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