今日の通読箇所:ルカによる福音書23:26~56、サムエル記上24~25、ヨブ記10
サムエル記上24~25;
ダビデがサウルの追跡から逃れてある洞穴に隠れていたとき、なんとそこにサウルが一人で入ってきました。用を足すために。彼はズボンを脱いでそこにしゃがんでいた。それを洞穴の中からダビデとその部下が見ていたわけです。部下たちはダビデに進言します。「主があなたに、『私はあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは思いのままにするがよい』と言われたのは、このときのことではありませんか(24:5)」と。確かに、千載一遇のチャンスでした。
しかし、ダビデはサウルを手にかけませんでした。ただそっと近寄って、サウルの着物端を少しだけ切り取りました。しかし、そのことにも後悔した。なぜか?「私はしてはならないことを、主にしてしまった。主が油を注がれた、わが主君に対し、手を上げてしまった。彼は主が油を注がれた方なのだ(7節)」。ダビデは、自分の振るまいが主なる神様の御前でどういう意味を持つのかをいつも考えていたのです。彼は自分の復讐心や自己保身を優先させませんでした。それ以上に大事にすべきことがある。それは、サウルが曲がりなりにも主に油を注がれて王とされた者、主のものであることです。主がサウルに油を注がれた。ただそれだけの理由で、彼はサウルを手にかけなかったのです。ダビデが目に見えない神を畏れていたからです。
第25章では、ナバルという男とその妻アビガイルという人が登場します。ナバルは不遜な男でした。裕福な男でした。ダビデはかつてナバルの家の者たちに誠意を示しており、この旅の援助を求めた。しかし、ナバルはダビデを侮辱しました。それでダビデはナバルとその家の者を滅ぼそうとした。それを知ったアビガイルがダビデの元を訪れ、彼を説得します。その言葉に耳を傾け、彼女の知恵と愛に富んだ言葉に心を打たれたダビデは、ナバルを自分の手にかけて復讐するのではなく、神の手に任せてしまうことにしました。
このエピソードも、ダビデが自分の心の燃えるままに振る舞うのではなく、目に見えない神の御業を待ち望み、神の御心に適う道を選び取ろうとするものであったことを伝えています。見えない神は、私たちにも、同じように臨んで(望んで)おられます。
2025年12月11日の聖句
私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ。(エレミヤ31:3) 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16) 神さまの愛は私たちにはあまりにも広く、長く、高く、深くて、想像が及びま...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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