2019年5月31日金曜日

2019年5月31日(サムエル記上26〜27)

今日の通読箇所:ルカによる福音書24、サムエル記上26~27、ヨブ記11

サムエル記上26~27;
サムエルが死に、サウルの歯止めが無くなったと見たのでしょう、ダビデはサウルのもとを離れます。以前、ダビデはサウルを暗殺する決定的なチャンスを手にしましたが、主に油注がれた人を手にかけることをしませんでした。そして、ダビデが考えたとおり、サウルはまたも3000人もの精鋭を率いて、ダビデを追跡しだしたのです。
ダビデの目の前まで来たサウルたち。ダビデは偵察隊の働きでそれを知り、闇夜に紛れてサウルの陣営に潜り込みました。彼はアビシャイという部下と二人で忍び込み、何とサウルが寝ているテントに侵入することに成功します。「サウルは陣営の中で横になって眠っており、彼の槍はその枕元の地面に突き刺してあった(26:7)」。この槍を手に取ってひと思いに突けば、ついにこの追跡撃破終わり、ダビデの身の安全は確保されます。何と言っても、サウルはかつて同じような場面で命を助けたときに、もうダビデの命を狙わないと誓っておきながら裏切ってきたのですから。もうこれ以上信頼するには価しないのです。アビシャイはダビデに進言します。「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。どうか、私に槍の一撃で刺し殺させてください。一度でしとめます(8節)」。しかし、ダビデは彼にいいました。「殺してはならない。主が油を注がれた者に手を下すなら、罰を免れることはない(9節)」。何とダビデは、今回も、主がこの人に油を注がれたからというだけの理由で、サウルを殺して自分が助かる絶好の機会を見逃したのです。しかしダビデの判断基準は、自分を守ろうとか、絶好の機会に見えるだとか、そういうことではなく主なる神様が何をしておられるか、という一点だったのです。人間的な判断基準からすれば、アビシャイが言うとおり神が与えてくださったチャンスに見えます。しかしダビデは主が油を注いだという、主のお働きを基準にしていたので、サウルを主ご自身の手に委ねたのです。
しかしやはり彼の身が危険であることには変わりありません。サウルはまたすぐに約束を破るでしょう。ダビデはペリシテ人の地に渡り、そこに寄留しました。祖国イスラエルの人々と戦っていると彼らの王に偽りながら、ペリシテの王に自分は味方だと思わせた。こうしてみると、サウルに寛大に接するダビデはただ単におめでたいだけだとか、お人好しだとか、そういうことではなかったことが分かります。したたかに知恵を用いた。必要とあらば人を欺くこともあった。しかしその知恵に溺れることがなかったのは「主は今何をしておられるのか」という明確な基準があったからなのです。それがダビデの知恵の要です。

2024年12月22日の聖句

今週の聖句: 主にあっていつも喜びなさい。主は近いのです。(フィリピ4:4,5b) 今日の聖句: あなたこそわが希望なる主。わが神よ、私は若い時からあなたに信頼しました。(詩編71:5) 私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見て...