今日の通読箇所:ルカによる福音書24、サムエル記上26~27、ヨブ記11
サムエル記上26~27;
サムエルが死に、サウルの歯止めが無くなったと見たのでしょう、ダビデはサウルのもとを離れます。以前、ダビデはサウルを暗殺する決定的なチャンスを手にしましたが、主に油注がれた人を手にかけることをしませんでした。そして、ダビデが考えたとおり、サウルはまたも3000人もの精鋭を率いて、ダビデを追跡しだしたのです。
ダビデの目の前まで来たサウルたち。ダビデは偵察隊の働きでそれを知り、闇夜に紛れてサウルの陣営に潜り込みました。彼はアビシャイという部下と二人で忍び込み、何とサウルが寝ているテントに侵入することに成功します。「サウルは陣営の中で横になって眠っており、彼の槍はその枕元の地面に突き刺してあった(26:7)」。この槍を手に取ってひと思いに突けば、ついにこの追跡撃破終わり、ダビデの身の安全は確保されます。何と言っても、サウルはかつて同じような場面で命を助けたときに、もうダビデの命を狙わないと誓っておきながら裏切ってきたのですから。もうこれ以上信頼するには価しないのです。アビシャイはダビデに進言します。「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。どうか、私に槍の一撃で刺し殺させてください。一度でしとめます(8節)」。しかし、ダビデは彼にいいました。「殺してはならない。主が油を注がれた者に手を下すなら、罰を免れることはない(9節)」。何とダビデは、今回も、主がこの人に油を注がれたからというだけの理由で、サウルを殺して自分が助かる絶好の機会を見逃したのです。しかしダビデの判断基準は、自分を守ろうとか、絶好の機会に見えるだとか、そういうことではなく主なる神様が何をしておられるか、という一点だったのです。人間的な判断基準からすれば、アビシャイが言うとおり神が与えてくださったチャンスに見えます。しかしダビデは主が油を注いだという、主のお働きを基準にしていたので、サウルを主ご自身の手に委ねたのです。
しかしやはり彼の身が危険であることには変わりありません。サウルはまたすぐに約束を破るでしょう。ダビデはペリシテ人の地に渡り、そこに寄留しました。祖国イスラエルの人々と戦っていると彼らの王に偽りながら、ペリシテの王に自分は味方だと思わせた。こうしてみると、サウルに寛大に接するダビデはただ単におめでたいだけだとか、お人好しだとか、そういうことではなかったことが分かります。したたかに知恵を用いた。必要とあらば人を欺くこともあった。しかしその知恵に溺れることがなかったのは「主は今何をしておられるのか」という明確な基準があったからなのです。それがダビデの知恵の要です。
2025年12月11日の聖句
私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ。(エレミヤ31:3) 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16) 神さまの愛は私たちにはあまりにも広く、長く、高く、深くて、想像が及びま...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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