今日の通読箇所:使徒言行録8:26~40、サムエル記下18~19、ヨブ記23
サムエル記下18~19;
アブシャロムのイスラエル軍対ダビデ軍の戦いは、ダビデ側の勝利に終わりました。ダビデは戦闘前に将軍であるヨアブ、アビシャイ、イタイに頼んでいました。「私に免じて、若者アブシャロムを手荒に扱わないでくれ(18:5)」、と。それはこの三人だけではなく、兵たちも皆知るところになりました。
ところが、ヨアブはアブシャロムを殺したのです。アブシャロムが死んだと聞いたダビデは、泣き叫びます。「わが子アブシャロムよ、わが子よ、わが子アブシャロムよ。私がお前に代わって死ねばよかった(19:1)」。ダビデの父としての気持ちが痛いほど伝わってきます。何という悲劇なのか・・・。
しかし、ヨアブは厳しくダビデに言いました。「あなたは今日、あなたの命、王子、王女たちの命、王妃、側女たちの命を救ったあなたの家臣たち全員に、恥をかかせました(19:6)」。たとえ相手が息子であろうとも、クーデターの首謀者を倒し、勝利を宣言し、戦った兵士たちをねぎらうのは王たる者のつとめだと言うのです。確かにそうであるかもしれません。しかし、あまりに過酷です。やはりここで思い出さないわけに行かないのは、バト・シェバの件でのダビデへの神の裁きの言葉です。「見よ、私はあなたの家の中から、あなたに対して災いを起こす。・・・(12:11~)」。もしかしたら、この世界で起こっていることの多くは、私たちの罪の結果であるのかもしれません。そうだとしら、この世界の混乱は、私たちの罪の混乱と言わねばならないのかもしれない。そこでの選択は、どちらを取るにしても辛いものです。それは、罪のつらさではないでしょうか。
19:25以下で、ダビデはメフィボシェトと再会します。メフィボシェトはダビデが都を追われたとき、一緒に行こうとはしませんでした。なぜか。彼は、部下に騙されたのだと言います。あのとき、彼の部下のツィバはメフィボシェトがダビデの失脚を喜んでいると言っていたのと、証言が食い違っている。どちらが真実であるのかは分かりません。しかしダビデはどちらも罰することなく、彼らを受け入れました。今回の出来事が起こしたさまざまな結果を、ダビデは甘んじて受け入れようとしていたのだろうと思います。
私たちを罪の悲惨から救いうるのは、ただ神様だけだと、改めて思い知らされます。
2024年12月24日の聖句
あなたの神、主があなたに与えられた祝福に応じて、おのおの手ずから贈り物をしなければならない。(申命記16:17) (東方の博士たちは)ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2:11) 東方の博士たちが幼子イエスにお献げした三つの贈り物...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...