2019年6月12日水曜日

2019年6月12日(サムエル記下18〜19)

今日の通読箇所:使徒言行録8:26~40、サムエル記下18~19、ヨブ記23

サムエル記下18~19;
アブシャロムのイスラエル軍対ダビデ軍の戦いは、ダビデ側の勝利に終わりました。ダビデは戦闘前に将軍であるヨアブ、アビシャイ、イタイに頼んでいました。「私に免じて、若者アブシャロムを手荒に扱わないでくれ(18:5)」、と。それはこの三人だけではなく、兵たちも皆知るところになりました。
ところが、ヨアブはアブシャロムを殺したのです。アブシャロムが死んだと聞いたダビデは、泣き叫びます。「わが子アブシャロムよ、わが子よ、わが子アブシャロムよ。私がお前に代わって死ねばよかった(19:1)」。ダビデの父としての気持ちが痛いほど伝わってきます。何という悲劇なのか・・・。
しかし、ヨアブは厳しくダビデに言いました。「あなたは今日、あなたの命、王子、王女たちの命、王妃、側女たちの命を救ったあなたの家臣たち全員に、恥をかかせました(19:6)」。たとえ相手が息子であろうとも、クーデターの首謀者を倒し、勝利を宣言し、戦った兵士たちをねぎらうのは王たる者のつとめだと言うのです。確かにそうであるかもしれません。しかし、あまりに過酷です。やはりここで思い出さないわけに行かないのは、バト・シェバの件でのダビデへの神の裁きの言葉です。「見よ、私はあなたの家の中から、あなたに対して災いを起こす。・・・(12:11~)」。もしかしたら、この世界で起こっていることの多くは、私たちの罪の結果であるのかもしれません。そうだとしら、この世界の混乱は、私たちの罪の混乱と言わねばならないのかもしれない。そこでの選択は、どちらを取るにしても辛いものです。それは、罪のつらさではないでしょうか。
19:25以下で、ダビデはメフィボシェトと再会します。メフィボシェトはダビデが都を追われたとき、一緒に行こうとはしませんでした。なぜか。彼は、部下に騙されたのだと言います。あのとき、彼の部下のツィバはメフィボシェトがダビデの失脚を喜んでいると言っていたのと、証言が食い違っている。どちらが真実であるのかは分かりません。しかしダビデはどちらも罰することなく、彼らを受け入れました。今回の出来事が起こしたさまざまな結果を、ダビデは甘んじて受け入れようとしていたのだろうと思います。
私たちを罪の悲惨から救いうるのは、ただ神様だけだと、改めて思い知らされます。

2025年10月31日の聖句

あなたがたはなぜ、私と争うのか。 あなたがたは皆、私に背いたーー主の仰せ。(エレミヤ2:29) 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、イエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。(ローマ3:23,24) 今日10月31日...