2019年7月1日月曜日

2019年7月1日(列王記下5〜6)

今日の通読箇所:使徒言行録20:1~16、列王記下5~6、箴言1:1~19

列王記下5~6;
ナアマンというアラムの将軍が登場します。彼は規定の病を得ていた。規定の病というのは皮膚病のことで、その中でも特に律法で「穢れ」として規定されている種類の病でした。当時、それを根治する方法はありませんでした。
私が子どもの頃にあった聖書カルタにはナアマンの話があって、「ナアマン七回水の中」という読み札を今でもよく覚えています。そう、ナアマンが病を癒やしてもらいにエリシャの所へ来たとき、預言者はナアマンにヨルダン川に行って、七回実を洗うように指示しました。ところが、それを聞いたナアマンは激怒します。自分の故郷、アラムの川の方がヨルダン川よりもよっぽど美しい。てっきり預言者が来て患部に手をかざして祈ってくれるものと思っていたら、あんな汚い川には入れだなんて・・・と怒ったのです。
確かに、ナアマンの身になって考えればもっともな話です。私たちは聖書を読んで結末を知っています。しかし、ナアマンには「七回水の中」の意味が分かりません。なぜそんなことをしなければならないのか、どういう意味があるのか、全く不明です。だから彼は怒った。その気持ちは、私たちにもよく分かります。
御言葉に従うというのは、もしかしたらこういうことなのかもしれません。意味が分からない、自分に納得できるようなやり方ではない・・・。私たちにもいろいろ言い分はあります。しかし、まず従ってみる。まず、神様がおっしゃるとおりにしてみる。それが大事なのではないでしょうか。
そうしたとき、ナアマンの身に出来事が起こりました。彼は癒やされた。彼は主なる神を信じます。しかし、アラムに帰れば、将軍として、王と共にリモン神殿に参拝せねばならない。どうしたらいいのか。彼はイスラエルの土を持ち帰りたいと言います。甲子園の土のような思い出作りのお土産ではありません。この土を使って主なる神に焼き尽くす捧げ物を献げるための祭壇をつくりたい、ということです。エリシャは「安心して生きなさい」と答えました。それでよい、ということでしょう。
思えば、ここまでの列王記上\下では、自分勝手な礼拝が厳しく戒められていました。自分の都合に合わせて好きな場所で、安心できるように目に見える像を造って。それは、結局自分の欲望を礼拝していることになってしまう。預言者はそう厳しく指摘してきた。ところが、ナアマンの時にはそうは言わなかった。預言者エリシャは、彼のしようとしたことを表面的には見なかったのだと思います。主の御前にだけ身をかがめて生き始めたナアマンの信仰を、しっかりと見抜いていたのでしょう。ナアマンの信仰、それは、主の言葉に従ってみることです。自分の理屈や納得を先に立たせるのではなく、神とその言葉が先にあって、私はそれに後ろから従っていく。そういう信仰の道を、この一人の異邦人は歩み始めたのです。

2024年5月22日の聖句

主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。(詩編111:9) この方(イエス・キリスト)こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2) 主が民をご自分のものとしてくださった。御言葉はそのように宣言します。私たちも神の民、神の...