今日の通読箇所:使徒言行録27:1~26、列王記下23~24、箴言6:20~35
列王記下23~24;
ユダの王ヨシヤは神殿で発見された聖書の御言葉に基づいて、国内の信仰の刷新を図りました。まず何よりも最初にしたことは、御言葉に聞くことです。「王は、ユダのすべての人々とエルサレムのすべての住民、祭司と預言者、子どもから大人まですべての民と一緒に主の神殿に上った。そして主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を人々に読み聞かせた。それから王は柱の傍らに立って、主の前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記された契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった(23:2~3)」。新約聖書には「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです(ローマ10:17)」という言葉があります。キリストが語りかけてくださる一つひとつの言葉に耳を傾け、聞くことから信仰は始まる。まさに、ヨシヤとユダの人々はこの道を再び歩み出しました。
ヨシヤの改革では異教の神々や人身御供などが徹底的に退けられました。しかしその中でも重要なのは、これです。「王はすべての民に命じた。『この契約の書に記されているとおりに、あなたがたの神、主の過越祭を祝いなさい』(23:21)」。このような過越祭は士師の時代以来行われたことがなかったといいます。士師の時代と言えば、モーセの後継者ヨシュアの次世代、ということでしょう。カナンの地でのイスラエルの歴史は、ほとんどの期間、過越祭を祝ってこなかったのです。過越祭は神が私たちをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、救ってくださったことを祝う礼拝です。主の救いの御業を祝って、その記憶を新しくします。救いを想起しなければ、信仰者は堕落してしまう。
こうして、御言葉と礼拝が、ヨシヤによって回復されました。しかし、なお「主はユダに対して燃え上がった激しい怒りの炎を鎮めようとはされなかった(23:26)」。厳しいことです。ヨシヤが徹底して神に立ち帰ろうと呼びかけ、国を挙げてそれにしがたいましたが、彼らは罪の破滅から逃れることができなかった。どんなにすばらしい礼拝も、御言葉に従う服従も、最後の最後に私たちを罪から救う力を持ち得ない。やはり、ただイエス・キリストの真実によるのでなければ、私たちは救われようがないのです。
ヨシヤの後に続く王たちは、みな主に背き、悪の中に身を沈めました。神の裁きは、その民を悪の中に放置するということによっても起こっている。このような私たち人間の現実を前にして、ただただキリストにすがるのみです。
2025年10月31日の聖句
あなたがたはなぜ、私と争うのか。 あなたがたは皆、私に背いたーー主の仰せ。(エレミヤ2:29) 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、イエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。(ローマ3:23,24) 今日10月31日...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1) こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15) 「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」 しかも、もったいないこ...