今日の通読箇所:使徒言行録26、列王記下21~22、箴言6:1~19
列王記下21~22;
ユダの王、マナセやアモンは「主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国民の忌むべき慣習に倣って、主の目に悪とされることを行った。父ヒゼキヤが破壊した高き所を建て直し、バアルの祭壇を築き、イスラエルの王アハブが造ったように、アシェラ像を造った。また天の万象にひれ伏し、これに仕えた(21:2~3)」。天の万象にひれ伏し、占いや卜占、霊媒や口寄せをするというのは、申命記4;19以下、律法の規定に明らかに背く行いでした。彼らの行動の基準は、主がくださった律法の教えではなく、周りの人々の慣習、つまり他の人がどう振る舞っているか、ということだったようです。
それに対して、ヨシヤ王というひとは、ユダの王家の歴史の中でもきら星のような存在であったと思います。「彼は主の目に適う正しいことを行い、父祖ダビデの道に従って歩み、右にも左にもそれなかった(22:2)」。まず最初に手をつけたのが、献金改革でした。献金をキチンと神殿のため、礼拝のために使うようにしました。それはかつてユダのヨアシュ王がしたのと同じ改革です。ヨアシュも「主の目に適う正しいことを行った(12:3)」王でしたが、ただ、当時の人々は高き所を離れはしませんでした。しかしヨシヤ王は、第23章に入ると、高き所を徹底的に破壊しつくします。ヨシヤはヨアシュよりもさらに神に従い通す人でした。どうして、そこまでできたのか?
ヨシヤ王の献金改革の時、神殿であるものが見つかりました。「あるとき、大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、『主の神殿で律法の書を見つけました』と伝えた。・・・書記官シャラファンは王に、『祭司ヒルキヤが私に一つの書を渡しました』と告げた。シャファンは王の前でそれを読み上げた。王はその律法の書を聞くや、衣を引き裂いた(22:8,10,11)」。このとき見つかった律法の書は申命記、あるいは申命記の核になる部分であると考えられています。ヨシヤ王は申命記の言葉を聞いて衣を裂いて悔い改めました。彼は律法、つまり聖書に記された主の言葉に従って生きたのです。それがヨシヤの生きる秘訣です。
私たちの生きる指針は、何でしょうか?聖書なのか、それとも周りの目や他の人の振る舞いなのか。自分の損得や都合のいいことを言ってくれる甘い言葉を聞くのか、それとも悔い改めを迫る聖書の言葉、神の言葉に従うのか。私たちは自分の思うがままに生きるのか、神に従うのか。。私たちの前に立つこの一人の信仰者の存在は、私たちにそう問いかけます。
2025年1月12日の聖句
今週の聖句: 神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。(ローマ8:14) 今日の聖句: 憎しみはいさかいを引き起こし、愛は背きのすべてを覆い隠す。(箴言10:12) 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりまし...
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神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...