2019年9月26日木曜日

2019年9月26日(イザヤ書55〜56)

今日の通読箇所:テモテへの手紙一5、イザヤ書55~56

イザヤ書55~56;
私の思いは、あなたがたの思いとは異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なるーー主の仰せ。天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道より高く、私の思いはあなたがたの思いより高い。(55:8~9)
神様は、私たちよりも遙かに高い思いを持っておられます。どういうふうに、それは私たちの重いとことなっていて、どういうふうに、それは私たちの思いよりも高いのでしょうか。
1,2節にこのように書いてあります。「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。金のない者も来るがよい。買って、食べよ。来て、金を払わず、代価も払わずに、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは糧にもならないもののために金を支払い、腹を満たさないもののために労するのか。私に聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたの魂は豊かさを楽しむだろう。」
「買って、食べよ」と言うのに、他方では「金のない者も来るがよい」と言います。「金を払わず、代価も払わずに、ぶどう酒と乳を買え」と言います。これは、全く私たちの社会生活上の常識に当てはまりません。金のない者に、金を払わずに買えというのは、冷たい火だとか熱い氷と同じような形容矛盾です。買うというのは代価を払って手に入れることです。もちろんこれは私たちと神様との関係の話です。私たちは、神様が下さる良いものを相応の代価を支払うことなく頂いています。神様が下さる良いものを、全部、ただで頂いています。ところが私たちが自分の力で手に入れたと思っているもの、ちゃんと自分が応分の負担をして、後ろめたくなく正当に手に入れたと考えているものは、神様からご覧になったら却って「糧にもならないもの」であり、「腹を満たさないもの」に過ぎないのかもしれません。
一年くらい前に、ある政治家が、特定の人たちを指して「生産性がない」として、公的支援をするべきではないと述べたことがありました。あのときは随分批判されていましたが、実は社会の本音をあまりにあからさまに言いすぎた、ということだったのかもしれません。私たちの社会は相応の代価を支払ったり、社会のための生産性を担保できない者に、価を払わずに食べるがよい、と言うことができないでいます。そういうときに自分の正義に酔っている姿は、もしかしたら、糧にならない者のために労しているということなのかもしれません。神様は「公正を守り、正義を行え(56:1)」と言われます。神様の公正や正義は、私たちの思いとは異なり、まったくの恵みのプレゼントとして与えられる贈り物に他なりません。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...