2019年9月7日土曜日

2019年9月7日(イザヤ書16〜18)

今日の通読箇所:フィリピの信徒への手紙1、イザヤ書16~18

イザヤ書16~18;
「その日には、人は造り主の栄光を仰ぎ、その目はイスラエルの聖なる方を見る。もはや、自分の手で造ったものである裁断を仰がず、自分の指で造った、アシェラ像や香の祭壇を見ることもない(17:7,8)」。
偶像礼拝という言葉がありますが、これは、単に刻んだ彫像のようなものを拝むということではないと思います。少なくとも、それだけではない。むしろ、私たち人間が自分の欲望を神とすること、あるいは神を礼拝しているようでも自分の理想とする神のイメージを押しつけること、それが偶像礼拝の本質です。ですから、私たちには、まことの神を礼拝しているつもりでありながら実のところ偶像を礼拝している、ということがしばしば起きてしまいます。
しかし、その日、主の栄光の日、もはや私たちは聖なるお方、神のみを見るようになります。自分自身の手、あるいは自分の願望が造り出した神の像を見ることはなくなる。私たちが、私たちのためではなく、本当に神の前にひれ伏し、礼拝するために神を見る日が来る。預言者はそのように言います。
私たちの心がどうしようもなく偶像に傾いてしまう理由について、預言者はこのように言います。「あなたは救いの神を忘れ去り、自分の砦である岩を心に留めることはなかった。それゆえ、あなたが好みの植木を植え、そこに他国の枝を挿し、植えたその日に成長させ
、蒔いたその朝に芽を出させても、病と癒やしがたい痛みの日が来て、収穫は消え去る(11節)」。私たちが偶像に傾いてしまうのは、私たちが救いの神を忘れているからだと訴えます。私たちを救ってくださる岩を忘れて、自分の願いが叶うことこそ私の救いと勘違いしてしまうことが、私たちを偶像に誘います。ですから、私たちが、私たちの真実な救い主、イエス・キリストのものであることを心に留めていたいと願います。そうでないと、私たちの願望は結局は私たちを傷つけ、損なってしまう。私たちは、私たちのためにすべてを献げてくださったイエス・キリストに祈り、この方を礼拝し、この方のものとして生きるとき、本当に癒やされ、慰めを得、そこに救いがあることを知るのです。

2025年1月18日の聖句

そこで今日あなたがたは、上は天においても下は地においても、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知って、心に留めておきなさい。(申命記4:39) あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキ...