今日の通読箇所:ペトロの手紙一2、エレミヤ書20~21
エレミヤ書20~21;
第20章冒頭に登場する主の神殿の責任者で監督者でもある祭司イメルの子パシュフルという人が、エレミヤに預言をやめさせようと実力行使に打って出ます。エレミヤを足枷につなぎました。さらに、第21章では、ユダのゼデキヤ王がバビロンのネブカドネツァル王が攻め入ったときに、その脅威から救ってくれる神の言葉を預言しろと迫ります。どちらも、自分に都合の好い言葉を聞きたい、耳障りな言葉は聞きたくないといって神様を退けたという事件です。
その間に挟まれた20:7~18には、このような世間の要求と、神に語れと命じられたこととの間に苦しむ一人の預言者の苦悩と告白が記録されています。
「主よ、あなたが惑わしたので、私は惑わされました。あなたは私より強く、私にまさりました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。私は語るごとに叫び、『暴虐だ、破壊だ』と声を上げなければなりません。主の言葉が私にとって、一日中、そしりと嘲りとなるからです(20:7~8)」。
エレミヤにとって一番問題なのは、神様でした。パシュフルやゼデキヤももちろん大問題ですが、それ以上に、神様に「語れ」と命じられていることが問題の根本でした。神に語れと言われて、それを実行に移すと、一日中笑いものにならざるを得ない。そしられ、仲間はずれにされてしまう。そうであるならば、エレミヤは思います。「私が、『もう主を思い起こさない。その名によって語らない』と思っても」・・・。エレミヤも、もういやだと思い、もう止めたいと悩みました。しかし、『そう思っても』、「主の言葉は私の心の中、骨の中に閉じ込められて、燃える火のようになります。押さえつけるのに私は疲れ果てました。私は耐えられません(9節)」。エレミヤの中で、神様の言葉が火のように燃え上がる。それを押さえつけることに、もう疲れ切ってしまった。そして、このようにも言わざるを得なくなります。「呪われよ、私の生まれた日は。母が私を産んだ日は祝福されてはならない(14節)」。まるでヨブのようなこの言葉は、深い絶望の言葉です。預言者が、このような深い淵に落とされ、呻きながら悲しみを口にしています。それは、神と人との間に立たされたものの苦悩です。
このエレミヤの苦しみ、呻きは、十字架のキリストの叫びに通じます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」キリストは深く絶望した者がいる深い淵よりも、なお深く降られました。キリストが知らない絶望はない。キリストが届かない悲しみはない。キリストの苦しみは、私たちの罪が追い落とした苦しみだからです。キリストは、深い陰府のどん底にもおられます。
エレミヤ書20~21;
第20章冒頭に登場する主の神殿の責任者で監督者でもある祭司イメルの子パシュフルという人が、エレミヤに預言をやめさせようと実力行使に打って出ます。エレミヤを足枷につなぎました。さらに、第21章では、ユダのゼデキヤ王がバビロンのネブカドネツァル王が攻め入ったときに、その脅威から救ってくれる神の言葉を預言しろと迫ります。どちらも、自分に都合の好い言葉を聞きたい、耳障りな言葉は聞きたくないといって神様を退けたという事件です。
その間に挟まれた20:7~18には、このような世間の要求と、神に語れと命じられたこととの間に苦しむ一人の預言者の苦悩と告白が記録されています。
「主よ、あなたが惑わしたので、私は惑わされました。あなたは私より強く、私にまさりました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。私は語るごとに叫び、『暴虐だ、破壊だ』と声を上げなければなりません。主の言葉が私にとって、一日中、そしりと嘲りとなるからです(20:7~8)」。
エレミヤにとって一番問題なのは、神様でした。パシュフルやゼデキヤももちろん大問題ですが、それ以上に、神様に「語れ」と命じられていることが問題の根本でした。神に語れと言われて、それを実行に移すと、一日中笑いものにならざるを得ない。そしられ、仲間はずれにされてしまう。そうであるならば、エレミヤは思います。「私が、『もう主を思い起こさない。その名によって語らない』と思っても」・・・。エレミヤも、もういやだと思い、もう止めたいと悩みました。しかし、『そう思っても』、「主の言葉は私の心の中、骨の中に閉じ込められて、燃える火のようになります。押さえつけるのに私は疲れ果てました。私は耐えられません(9節)」。エレミヤの中で、神様の言葉が火のように燃え上がる。それを押さえつけることに、もう疲れ切ってしまった。そして、このようにも言わざるを得なくなります。「呪われよ、私の生まれた日は。母が私を産んだ日は祝福されてはならない(14節)」。まるでヨブのようなこの言葉は、深い絶望の言葉です。預言者が、このような深い淵に落とされ、呻きながら悲しみを口にしています。それは、神と人との間に立たされたものの苦悩です。
このエレミヤの苦しみ、呻きは、十字架のキリストの叫びに通じます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」キリストは深く絶望した者がいる深い淵よりも、なお深く降られました。キリストが知らない絶望はない。キリストが届かない悲しみはない。キリストの苦しみは、私たちの罪が追い落とした苦しみだからです。キリストは、深い陰府のどん底にもおられます。