今日の通読箇所:ヨハネによる福音書1:1~28、エレミヤ書34~35
エレミヤ書34~35;
ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。その契約は、各自がヘブライ人の男女の奴隷を自由の身として去らせ、誰であれ同胞であるユダの人を奴隷とはしないというものであった。この契約に加わった高官とすべての民は、それぞれ男女の奴隷を自由の身として去らせ、再び奴隷とはしないということを聞き入れた。彼らは聞き入れた上で奴隷たちを去らせた。しかしその後、彼らは態度を変え、いったん自由の身として去らせた男女の奴隷を連れ戻し、彼らの男女の奴隷として仕えさせた。(34:8~11)
そもそも、レビ記25:39を読むと、イスラエルの中では同胞を奴隷としてはならないとされています。しかし、そのような律法も形骸化していたようです。異邦人を奴隷とする場合も、七年経ったら解放しなければなりませんでした。今回のゼデキヤと民との契約というのは、この七年目の定めを実行に移そうとしたのかも知れません。しかし、実際にはかけ声だけに終わり、実行には移されませんでした。
明らかに、奴隷を解放することが惜しくなったからです。他人を奴隷として働かせることに味を占めれば、もう奴隷なしの生活は考えられなくなってしまう。それが人間の罪の現実であるのではないでしょうか。
第35章にはレカブ人という人たちが登場します。彼らはぶどう酒を飲まず、土地を所有することもなく、天幕に住んでいたと言います。列王記下10:15に、ここに名前が挙がっているレカブ人ヨナダブが出てきます。彼はイエフ王と共にバアル預言者と祭司を滅ぼした人物です。彼に命じられたとおり、レカブ人は忠実に生きてきました。主なる神様は、そのことをとても喜ばれました。それに引き換え、ユダとエルサレムの人々は忠実ではなかった、ということが指摘されています。
レカブ人は、どうやらカインの末裔のようですが、はっきりしたことはよく分かりません。ただ、異邦人であることは確実です。奴隷を手放せないユダヤ人、神に忠実になろうとしなかったユダヤ人。そして、神に忠実であったレカブ人。結局、どういう国籍や民族性、文化なのか、そういったことは神様の前に大きな意味を持たないようです。むしろ、主に従い、隣人を愛することを、神は喜んでくださるのです。
エレミヤ書34~35;
ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。その契約は、各自がヘブライ人の男女の奴隷を自由の身として去らせ、誰であれ同胞であるユダの人を奴隷とはしないというものであった。この契約に加わった高官とすべての民は、それぞれ男女の奴隷を自由の身として去らせ、再び奴隷とはしないということを聞き入れた。彼らは聞き入れた上で奴隷たちを去らせた。しかしその後、彼らは態度を変え、いったん自由の身として去らせた男女の奴隷を連れ戻し、彼らの男女の奴隷として仕えさせた。(34:8~11)
そもそも、レビ記25:39を読むと、イスラエルの中では同胞を奴隷としてはならないとされています。しかし、そのような律法も形骸化していたようです。異邦人を奴隷とする場合も、七年経ったら解放しなければなりませんでした。今回のゼデキヤと民との契約というのは、この七年目の定めを実行に移そうとしたのかも知れません。しかし、実際にはかけ声だけに終わり、実行には移されませんでした。
明らかに、奴隷を解放することが惜しくなったからです。他人を奴隷として働かせることに味を占めれば、もう奴隷なしの生活は考えられなくなってしまう。それが人間の罪の現実であるのではないでしょうか。
第35章にはレカブ人という人たちが登場します。彼らはぶどう酒を飲まず、土地を所有することもなく、天幕に住んでいたと言います。列王記下10:15に、ここに名前が挙がっているレカブ人ヨナダブが出てきます。彼はイエフ王と共にバアル預言者と祭司を滅ぼした人物です。彼に命じられたとおり、レカブ人は忠実に生きてきました。主なる神様は、そのことをとても喜ばれました。それに引き換え、ユダとエルサレムの人々は忠実ではなかった、ということが指摘されています。
レカブ人は、どうやらカインの末裔のようですが、はっきりしたことはよく分かりません。ただ、異邦人であることは確実です。奴隷を手放せないユダヤ人、神に忠実になろうとしなかったユダヤ人。そして、神に忠実であったレカブ人。結局、どういう国籍や民族性、文化なのか、そういったことは神様の前に大きな意味を持たないようです。むしろ、主に従い、隣人を愛することを、神は喜んでくださるのです。