2019年10月9日水曜日

2019年10月9日(エレミヤ書16〜17)

今日の通読箇所:ヤコブの手紙5、エレミヤ書16~17

エレミヤ書16~17;
今日の冒頭に「主の言葉が私に臨んだ。あなたはこの場所で妻をめとってはならない。また、息子や娘を得てはならない(16:1~2)」という言葉があります。こういう預言者の行動を「象徴行為」と呼びます。第13章に亜麻の帯を岩陰に隠しておく、という不思議なエピソードがありました。これも象徴行為です。こういう行動は、言葉だけではなく預言者の行動や生き方そのものがしるしとして、預言としてのメッセージになるためになされることです。これから預言者を呼んでいくと、しばしば象徴行為が登場してきます。
エレミヤの場合、ここでは、結婚もせず子どもももうけないことでした。これは何を意味しているのか、どのようなメッセージなのか。続けてこのようにも言われていきます。「あなたは喪中の家に入ってはならない。嘆くために行ってはならない。私が、この民から私の平安を、慈しみと憐れみを取り去ったからだーー主の仰せ(5節)」。「私は、この場所から、あなたがたの目の前で、あなたがたが生きているうちに、喜びの声と楽しみの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす(9節)」。このように、主なる神様がこの地から結婚や葬りといった人間の営みによる喜びも悲しみも取り去る、と言われています。それが神の裁き。それは彼らが「他の神々に従い、これに仕え、これにひれ伏し、私を捨て、私の立法を守らなかったためである(11節)」と言うのです。預言者エレミヤが結婚を禁じられたのは、身をもってその裁きを世に示すためでした。
私たちには私たちの罪の深刻さがよく分かりません。それは神様にしか分からないことなのかもしれません。「心は何にもまして偽り、治ることもない。誰がこれを知りえようか主である私が心を探り、思いを調べる(17:9~10)」。私たちの治ることのない「死に至る病(16:4)」は「命の泉である主を捨てた(17:13)」ことから始まります。私たちは、ただこう祈るだけです。「主よ、私を癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます(14節)」。アーメン。

2025年7月14日の聖句

(ソロモンの言葉)見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。(列王記上8:27) まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:23) ソロモンが建てた神殿は一体どのような建物だったのでしょ...