2019年10月6日日曜日

エフェソの信徒への手紙第2章11から22節「キリストはわたしたちの平和」

 今日、10月第一主日は世界聖餐日と呼ばれています。日本キリスト教協議会(NCC)のホームページにこのような説明があります。「世界聖餐日は、1946年に、WCC(世界教会協議会)の前身である世界基督教連合会の呼びかけによって始められました。第二次世界大戦の深い傷跡の後、世界中の教会が聖餐を通してキリストにある交わりを確かめ、全教会の一致を求めて制定されました。」戦争の傷から立ち直るために、聖餐を共に祝おうというのが趣旨です。
 世界聖餐日が始まった1946年から既に70年以上経ち、もしかしたら、この考え方はすでに時代遅れだ、と感じる人もあるかもしれません。21世紀に入って、むしろ聖餐に代表されるような「宗教的な営み」が、世界の亀裂を深めていると思われているからです。むしろ宗教にこだわって自分たちを特別視するのではなくて、多様性を認め、不正義を糾し、一刻も早く世界中で燃えている憎悪の火を消さなければならないのではないでしょうか。
 しかし、ここは慌てずに、一歩引いて聖書に耳を傾けましょう。11から13節を見ると、興味深い表現が出てきます。「あなたがたは以前には…(11節)」、「また、そのころは、…(12節)」、「しかしあなたがは、以前は遠く離れていましたが、今や、…(13節)」。ここでは、あなたたちは以前にはこうだったが、しかし今や、と言われています。以前は、割礼のない異邦人でした。それは今もそうです。割礼は、最初は神の契約のしるしであって尊いものでしたが、そこで神さまとの関係が曖昧になると、たんなる民族的・宗教的なアイコンになってしまいます。民族主義や宗教的な狭さは、私たちを分断します。いや、分断は、民族や宗教とか変わりなくとも、違う立場に対して自分を絶対化するところで必ず起きます。香港政府が市民に牙を剥いている出来事を、私たちは目の当たりにしています。敵意という隔ての壁は、あちこちにあります。私と隣人との間にだって。その根本的な理由は、私たちがキリストと関わりなく生きており、神との恵み深い約束を含む契約とも関係がないことです。だから、この世に希望を持たないのです。民族性や宗教にしても社会的立場にしても、自分が既に持っているもの、自分が頼りにしがちなものです。しかしそれは、敵意という壁を超えることがない。却って、その壁を強固にしてしまいます。しかし今や、と聖書は私たちに告げます。私たちは今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。キリストが私たちの平和になり、私たちを一つの体にして、神と和解させてくださった。あくまでもキリストがしてくださったことです。キリストがしてくださった和解によって、今の私が決定づけられるのです。
 私たちは、私たちの深い傷や敵意という隔ての壁を考えるときに、このキリストの出来事を無視することはできません。世間にはとても立派な思想家や活動家がたくさんいて、平和のためのすばらしい働きをしています。しかし教会は、同じ地平に立って僅かなものを加えるのではありません。私たちはキリストの血による和解の福音を世界に宣べ伝えます。この方が私たちを敵意から解放して和解させてくださったからです。私たちはキリストにあって、赦しがたい人と共に一つの食卓、聖餐の食卓につくことができます。キリストの和解の福音に、この私も生かして頂いているからです。

2025年7月14日の聖句

あなたが造った神々はどこにいるのか。災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら。(エレミヤ2:28) 私の愛する人たち、偶像礼拝を避けなさい。(1コリント10:14) 偶像礼拝。それは、私たちの願望が造り出す神への礼拝です。偶像の神は私たちの願いの奴隷です。ですから何らかの目に見える...